存如
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存如

応永3年7月10日 - 康正3年6月18日
1396年8月21日 - 1457年7月18日
1396年8月13日 - 1457年7月9日
上段・旧暦 中段・グレゴリオ暦換算[1] 下段・ユリウス暦
法名存如
諱圓兼
尊称存如上人
宗旨浄土真宗
宗派本願寺派(後の浄土真宗本願寺派、後の真宗大谷派
寺院大谷本願寺
巧如
弟子蓮如、蓮照
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存如(ぞんにょ)は、室町時代浄土真宗浄土真宗本願寺派第7世宗主・真宗大谷派第7代門首。大谷本願寺住職。は圓兼。法印権大僧都。父は第6世巧如広橋兼宣猶子。妻は如円尼。本願寺中興の祖・第8世蓮如は長男。子に蓮照(応玄)。弟に空覚(光崇)、越中国瑞泉寺住持如乗(宣祐)。従兄弟は大和興福寺大乗院門跡経覚とされる。

現在の本願寺に見られるような、御影堂・阿弥陀堂の両堂形式をはじめて整備した。また、『正信念仏偈』(正信偈)・『三帖和讃』を重視し教化に用いるなど、蓮如に与えた影響は少なくない。
生涯

年齢は、数え年。日付は文献との整合を保つため、いずれも旧暦(宣明暦)表示を用いる(生歿年月日を除く)。

応永3年(1396年)、本願寺第六世巧如の長男として生まれる。後に准大臣広橋兼宣猶子となって青蓮院得度中納言と称する。

永享8年(1436年)に父・巧如より本願寺住持職を継承。

康正3年6月18日(1457年7月18日[1] )、62歳にて示寂。存如による譲状がなかったために問題が起きたが跡は長男の蓮如が第8世となり本願寺を継ぐ。

脚注欄^ a b グレゴリオ暦換算。本願寺派では、グレゴリオ暦に換算した生没年を用いる。










本願寺

本願寺寺基の移転と分立
東西分立前
本願寺の歴史

大谷廟堂 1272-1295(1321) → (大谷影堂)1295-1321 → 大谷本願寺1321 - 1465 ⇒ 山科本願寺1483 - 1532 ⇒ 石山本願寺(大坂本願寺)1532 - 1580 ⇒ 鷺森本願寺1581 - 1583 ⇒ 貝塚本願寺1583 - 1585 ⇒ 天満本願寺1585 - 1591 ⇒ 本願寺(堀川六条)1591 - (1603) → (1603本願寺の東西分立) ?
東西分立後

(本願寺〈西〉) → 1881 - 浄土真宗本願寺派

本願寺(通称:「六条門跡」・「本門」→「西本願寺」)1591(1603) -
(本願寺〈東〉) → 1881 - 真宗大谷派

本願寺(通称:「信淨院本願寺」・「七条本願寺」→「東本願寺」)1603 - (1987) → (東本願寺分派)?
東本願寺分派後

(1881) - 真宗大谷派

本願寺(東本願寺)1603 - 1987 → 真宗本廟(通称:東本願寺・本願寺)1987 -
1988 - 浄土真宗東本願寺派

東京本願寺1981 - 2001 → 浄土真宗東本願寺派本山東本願寺2001 -
浄土真宗大谷本願寺派
本願寺文化興隆財団

本山本願寺(山科区上花山)1996 -
本願寺(京都市右京区)

(嵯峨)本願寺2005 -


東西分立後も、1987年に真宗大谷派が「宗教法人 本願寺」の解散の登記を行うまでは、共に「本願寺」が正式名称である。真宗大谷派は、1987年以降も「真宗本廟」の別称として「本願寺」を用いている ⇒『宗憲』第十三条
記号 - 「⇒」は寺基移転を表し、「→」は寺基移転を伴わない名称変更などを表す。

本願寺歴代
東西分立前

(宗祖) 親鸞 - (2) 如信 - 3 覚如 - 4 善如 - 5 綽如 - 6 巧如 - 7 存如 - 8 蓮如 - 9 実如 - 10 証如 - 11 顕如 - (12→隠退) (教如) - (1603年 本願寺の東西分立) ?


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