存在
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松山千春の曲については「存在 (松山千春の曲)」をご覧ください。
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この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2017年5月)

存在(そんざい、英語 being, existence, ドイツ語 Sein)とは、

あること[1]。あるいは、いること[1]。また、そのある(いる)何か[1]。事物、物体、事柄、物質として有るという概念及びそのもの。「歴史に存在する人物」「の存在」のように用いる[1]

哲学

他の何かに依存することなく、それ自体としてあるもの[2]

ものの本質[2]

(人間にとって)まず現実(リアリティ)としてあるもの。実存[2]

現象》として人の意識に映じているものや人が経験している内容[2]


概要

「存在」は古代ギリシャ語ではeon や ousia ウーシア、ラテン語ではesse エッセ、ドイツ語では大文字で始まるSein ザイン、フランス語ではetre エ(ー)トルなどとされる[3]

ヨーロッパの哲学の歴史を見てみると、「存在」についての思索、つまり「いったい何が“ある”のか?」や「“ある”とはどういうことか」ということは、ひとつの究極の主題であったとも言える[3]。別の言い方をすると(他の地域の哲学はまた別の話であるが)ヨーロッパ哲学は基本的に存在論であったとも言える[3]

一方、東洋ではインドで、《無》と関連づけられつつ《有》が探求された。解脱指向のアプローチが現れたり、(西洋同様とも言える)現象界の虚妄性を強調するアプローチが現れた。(後述)
西洋
パルメニデスParmenid?s(アテナイの学堂

パルメニデスは「ある」に関して多くの文章を残している[3]。彼は次のように述べた。eon(ある)は不生不滅、全体、唯一、不動であり、終わりがない、またそれは、あったこともなく、あるだろうこともない、なぜなら、それは、今、ひとときに、全体、一、連続としてあるのだから。

パルメニデスは「何かがある」ということは証明されうることでもなければ、証明されるべきことでもない、とした[3]

パルメニデスは「eon(ある)」の内容を真に理解することに努力を注いだ。そして、それは基本的に nous ヌースあるいはlogos ロゴスによってのみ理解されうる、とした[3]

パルメニデスは「eon(ある)」の誕生を求めてはならぬ、とした[3]。というのは、まず「ある」が「あらぬ(=)」から生じたと考えることはできない、と言う[3]。「あらぬ」は「あらぬ」であって、語ることも考えることもできぬ非実在だとする[3]。では、だからと言って「ある(A)」は「ある(B)」から生じたとすると、「ある(A)」は「ある」ではなかった、という自己矛盾が生じるから、と言う[3]

よって、存在に先行する存在はありえず、存在の後にくる存在もない。つまり、存在に関しては過去も未来も意味を持たない、存在について時間は意味を持たない、とした[3]。同様の論法でパルメニデスは、存在の不可分性、連続性、同質性などを否定してゆく。こうしてロゴスを用いた洞察で、「eon(ある)」をの真の姿にもとづいて、人が感覚する「生成変化する時間的な世界」というのは、虚妄の世界だとする[3]。このパルメニデスの論調がひとつの基調となってヨーロッパの存在論へとつらなり「実在と現象」といった二世界論へとなってゆくことになった[3]
アリストテレスアリストテレス

アリストテレスのMetaphysica『形而上学』は体系的な思索をおこない、その原基を提供し、現代に至るまでヨーロッパの形而上学を規定したり影響を与えたりしている[3]

アリストテレスはまず、『「ある」は様々な意味で語られる』ということ、つまり存在の多義性に着目し、その分析から「ある」こと(存在)についての思索を展開する[3]。アリストテレスは「存在の多義性」を広い意味および狭い意味で用いた。広義のそれを4つからなる多義性とした。それは
付帯性としての「ある」

真としての「ある」

カテゴリーとしての「ある」

デュナミスエネルゲイアとしての「ある」

の四種類があるという意味での多義性である[3]。狭義の多義性については、10個のカテゴリーに分化して展開することを指した[3]。なお、アリステレス自身はそれらの中で「カテゴリー」としての「ある」を重視したため、それがヨーロッパの伝統に引き継がれ、結果として「ousia ウーシア(実体)」が最重要視されるようになった[3]

ではそのウーシア(実体)をアリストテレスがどのように考えたかと言うと、彼は2つの考え方をしたのであり、
ひとつは@「あらゆる“ある”ものに共通の、あるものを あらしめる 普遍的な性格」として[3]

もうひとつはA「究極の存在者、すなわち」とした[3]

この@の実体、「あるものをあらしめる普遍的な性格」について解説すると、およそあるものをあらしめている原理は何か?と問うと、例えば具体例としてここに車があるとして、その車を車たらしめている原理は何か?と問うと、すぐに「それは鉄やガラスという素材だ」などと考えてしまう者がいるが、しかし素材は交換しても車は車であるし、またそれらの素材をただ不規則に集めても車にはならない[3]。それらの事実を考慮すると、車を車ならしめているのは、設計図(や設計の意図を表現した何か)ということになる[3]。)(アリストテレスは、ヒューレー(質料、現代風に言うと“素材”)とエイドス形相)という概念を用いて様々なことを説明したが)前述のことを考慮すると、結局、「あるものがあるものであらしめているのは、ヒューレー(≒素材)ではなく、エイドス(形相)のほうであり、原理から考えて、エイドスのほうが優れて実体である」とした[3]

次にAの実体、「究極の存在者、すなわち神」についてアリストテレスは、この世界にあるものはすべて生成消滅することから、エネルゲイア(純粋現実態)とした[3]
中世哲学

中世哲学のなかでもとくにトマスの存在論においては、「存在そのもの」が主題とされた[3]。「存在そのもの」はカテゴリーに依存しておらず、現実態そのものであり、真にその名に値するものは神のみである、とする[3]。神以外の存在者は被造物であり、essentia(本質)を通してのみ、existentia(存在)が与えられる、とされた[3]。つまり、実体・量・性質等々のカテゴリーが与えられ、その形式のもとに「存在すること」が成立するようになる、とした[3]


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