子連れ狼_(若山富三郎版)
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『子連れ狼』(こづれおおかみ)は、小池一夫小島剛夕漫画子連れ狼』を原作とする若山富三郎主演の映画シリーズ。同作品の初の映像化作品である。
解説

1972年昭和47年)から1974年(昭和49年)にかけて、勝新太郎の『座頭市シリーズ』などを支えた旧大映京都撮影所のスタッフによる、「勝プロダクション」によって制作され、東宝の配給で6本製作された。若山の実弟・勝新太郎が、プロデューサーとして参加している。勝は4作目で制作から離れ、5作目と6作目は主演の若山自身がプロデュースを務めた。

脚本は5作目まで劇画原作者である小池自身が担当し、中村務が撮影用に手直しして完成稿とした。1作目の『子連れ狼 子を貸し腕貸しつかまつる』の並映作品『座頭市 御用旅』が企画されたのは、大映倒産の前だった。制作中に大映倒産の憂き目に遭った大映京都のスタッフを「勝プロ」が救うことで、本作との2本立て上映が実現した。
製作経緯

『子連れ狼』は元々、小池一夫が1964年の勝新太郎主演の『座頭市血笑旅』から発想したもの[1]。小池は主演を勝新太郎か渡哲也にやって欲しくて[1]、最初は渡にオファーしたが[1][2]、急病で出来なくなった[1][2]。原作の劇画『子連れ狼』はすでに世に知れたヒット作だった。渡が断り話が浮いてることを知った若山富三郎は原作漫画の大ファンで、「主人公は俺以外にない」と力んでいた[1]。それで「ぜひ主演で映画製作を」と、若山は模造刀を引っさげて作者の小池一夫宅にアポイントなしで突然訪れ[1]、「この役をやらせて欲しい」と頼み込んだ[1]。あまりに急な要請に小池が逡巡していると、若山は「俺が太っているからためらってるんだろう? じゃあこれを見てくれ」と小池宅の庭に降り、刀を左手に持ち替え、目の前でトンボを切り(前方宙返り)、素早く抜刀・納刀をして見せた[1]。その動きを見て感心した小池は「どうぞお願いします」と契約書も何も交わさないままこれを承諾したという[1]。小池は「制作スタッフ」扱いで、撮影現場にも立ち会っている。

これとは別にテレビ局から「『子連れ狼』をテレビ映画の主演でやってもらえないか」と勝新太郎に話が持ち込まれていた[1]。勝も乗り気だったが[1]、勝が兄の若山富三郎に話したところ「あれはどうしてもやりたいんだ。原作者の了解もとってある」と言われ、「それならオレがプロデュースし、兄ちゃんが主演で映画にすればいい」と映画化が決まった[1][3]。勝プロで権利を買い[1]、勝がプロデューサーになり[1]、若山が主演でやることになった[1][2]。 

弟とはいえ、東映専属の看板スターの一人である若山が、独立プロ「勝プロダクション」を主宰する勝の映画に[4]、主演するということでまず問題になった[1][3]。東映は1971年8月に岡田茂が社長が就任して、大手映画会社(当時は事実上3系統)[4]で唯一、「独立プロを主宰するスターの製作映画は、ウチでは配給をしない」と表明し[4]、「ブロック・ブッキングと、スターの専属強化」を打ち出したところだったからである[3][4]。若山は当時東映で「極道シリーズ」「賞金稼ぎシリーズ」と二つのシリーズものを持っていた[1]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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