子ども戦争博物館
[Wikipedia|▼Menu]

子ども戦争博物館


施設情報
正式名称ボスニア語: Muzej ratnog djetinjstva、英語: War Childhood Museum
専門分野歴史
館長ヤスミンコ・ハリロビッチ(Jasminko Halilovic)
開館2017年1月28日
所在地Logavina 32, サラエヴォ
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯43度51分43秒 東経18度25分43秒 / 北緯43.861991度 東経18.428524度 / 43.861991; 18.428524座標: 北緯43度51分43秒 東経18度25分43秒 / 北緯43.861991度 東経18.428524度 / 43.861991; 18.428524
外部リンク ⇒museum.warchildhood.com
プロジェクト:GLAM
テンプレートを表示

『子ども戦争博物館』(こどもせんそうはくぶつかん、ボスニア語: Muzej ratnog djetinjstva、英語: War Childhood Museum)は、2017年サラエヴォで開館した歴史に関する博物館。戦時下の子どもたち博物館[1]、戦場の子ども時代博物館[2]などの日本語訳もある。ユーゴスラビアで起きたボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争(1992年-1995年)の当時に子供だった人々の記憶や品々を収集・展示して開館した。開館後は、他の地域の戦時下の子供についても収集を進めており、平和構築のための活動を行なっている。館長はヤスミンコ・ハリロビッチ(Jasminko Halilovic)[2]
設立の背景
ユーゴスラビア紛争とサラエヴォ包囲1992年から1993年の冬季のサラエヴォの子供たち

1991年に始まったユーゴスラビア紛争によって、ユーゴスラビアの各共和国で戦闘が起きた。ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争では、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都サラエヴォサラエヴォ包囲(1992年-1995年)と呼ばれる攻撃を受けた[3]。盆地の都市であるサラエヴォは、周囲の丘陵から戦車や迫撃砲、狙撃兵に攻撃された。砲撃は多い時で4時から22時まで続き、1日に千数百発を超えた[4]。この攻撃で11000人以上の市民が死亡し、そのうち子供は1600人以上いた[3]

食糧、水、電気、燃料が不足し、住まいを失った人々はサラエヴォを脱出した人々の空き部屋などに住んだ[5]。紛争開始後の1992年4月に学校の校舎は閉鎖され、中等学校やギムナジウムは難民の住居になった[6]。あらゆる施設が標的となり、公園への砲撃で親子が死傷することも起き、子供は戸外での遊びを禁じられるようになった。メインストリートは「スナイパー通り(英語版)」と呼ばれ、子供も狙撃兵に狙われた[注釈 1][8][7]。「スナイパーがねらっている通りを、友だちが走って渡ろうとしていたんだ。母親は髪を逆立てて見守っている。それを見ていた2人の男が賭けをしていたんだ。彼が生き残れるかどうか。」 マヒル(男性)1978年生まれ[1]

子供が町を出歩くのが危険であるという判断もあり、市民の住居を借りて階段や地下室で授業が続けられた。授業の長さは、その日の砲撃の激しさで決められた[注釈 2][9][10]

サラエヴォ市民は、包囲攻撃を受けながらも以前からの日常を維持しようと生活し、それまでの衣服や通勤、誕生パーティや結婚式、コンサートや演劇などを続けた[11][12]。砲撃を受けるとジョークを言って笑いに変えることもあった[12][13]
『ぼくたちは戦場で育った』水を汲むための行列。子供もポリタンクを持って水運びを手伝った[14]

本博物館の館長となるヤスミンコ・ハリロビッチは、4歳から8歳にかけて包囲下で子供時代をすごした[3]。ハリロビッチは当時を振り返り、普通に暮らすことが戦争に対する抵抗だったと語っている[注釈 3][16]

ハリロビッチは2010年にサラエヴォをテーマにしたブログを始めて書籍化され、同じくサラエヴォを撮影した写真付きエッセイも発表した。ハリロビッチは戦争に巻き込まれた子供をテーマにしてできることを考え、サラエヴォ包囲当時に子供だった人々の声を集めることにした。募集は2010年6月から始め、最もあざやかに覚えていることを160文字以内で送ってくれるように頼んだ[注釈 4]。呼びかけによって、1974年から1992年生まれの人々から1500以上のメッセージが集まった。紛争をきっかけに国外に移った人々も多く、投稿の約20%は国外からだった。投稿に多く含まれていた言葉には、ランチパック(39%)、パン(33%)、友情(33%)、つるむ(24%)、米(20%)、愛(18%)、死(17%)、迫撃弾や砲撃(13%)、地下室(10.4%)、遊びに関する語(9.8%)、恐怖(9.2%)などがあった[18]。このプロジェクトは『ぼくたちは戦場で育った』という題名で書籍化された。この書籍の日本語版は、作家の角田光代が翻訳を行い、サラエヴォ出身で元サッカー日本代表監督であるイビツァ・オシムが解説を寄稿した[19][1]
博物館設立

ハリロビッチは、包囲当時の物も保存されていることに気づき、それらを集めて博物館を作ることを考えた。これが子ども戦争博物館として実現した[1]。人々の記憶だけでなく、当時の物もたくさん保存されていることに気がつきました。それらも、より多くの人に見ていただけるような場所を作りたい。(中略)それらを見れば、どんな戦争だったのか、どんな子ども時代だったのか、よりリアルに理解していただけるはずです。本はサラエボに限った内容ですが、「戦時下の子どもたち博物館」はボスニアの記憶として共有したいと思っています。[1]

博物館のプロジェクトは人類学者、心理学者、歴史学者らの協力を得て、紛争当時のボスニア・ヘルツェゴヴィナで子供だった人々から3000点以上の物と体験談を集めた[20]。その後、2017年1月28日に正式に開館した[21][2]
活動
展示物の収集・保存

紛争当時の記憶をとどめる手紙や写真、道具類、人道支援物資などさまざまな品を所蔵している[22][2]。収集は国際博物館会議(ICOM)の基準にしたがって行われ、寄贈にあたっては、日付、品の説明、人物の名前が記録される[23]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:83 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef