「子どもたちが屠殺ごっこをした話」(こどもたちがとさつごっこをしたはなし、独: Wie Kinder Schlachtens miteinander gespielt haben, KHM 22a)は、『グリム童話』に収録されていた童話の一編。初版には収録されていたが、あまりにも残酷な内容かつ、教訓性もほとんど感じられない話のため評判が悪く、第二版以降は削除されている。また、高木昌史『決定版 グリム童話事典』によれば、この話は2編ともアヒム・フォン・アルニムが1810年11月13日付、第38号『ベルリン夕刊紙』へ掲載した話そのままであり、アルニムはそれをそのまま『グリム童話』に入れることについて非難していた[1][2]。目次
1 あらすじ
2 童話の出典
3 童話に掲載したことへの非難と第二版以降での削除
4 類似話
5 脚注
6 関連項目
7 外部リンク
あらすじ
第1話
昔、フリースラント(現在のオランダ・フリースラント州)のフリェンチャル(フリジア語: Frjentsjer
KHMのそれぞれの話は個人聴取が多いが、この22番の第1話は1810年11月13日付、第38号『ベルリン夕刊紙』の「無邪気に他の子を殺してしまった子ども」(Von einem Kinde, das kindlicher Weise ein anderes Kind umbringt“)からの転載である。なお、ベルリン夕刊紙にはこの後に解説があり、「ある古い本からのこの感動的な話は、ヴェルナーの『2月24日』と題する最近の小悲劇によって新たな関心を呼び起こしている。この悲劇は、ヴァイマールとラウホシュテットにおいて、すでにしばしば非常に活発な関心をもって、恐らくは近代の詩人の作品ではないものとして、見られている。悲劇の中で運命という不安な短刀であるその忌まわしい殺人のナイフは(おそらくはマクベスが手にして王の寝室へ行くのと同じ短刀であろうが)、一人の男の子が別の子を殺してしまうときのナイフと同じものであり、彼はその行為において最初の血の聖別式を受けるのである。ヴェルナーが上の話を完全に知っているのかあるいは語っているのかは、我々にはわからない。なぜなら、ヴェルナーのあの卓越した作品、これにはただ3人の登場人物、父親と母親と息子、スイス風の農家の部屋、引き出し、ナイフ、それに冬がやがてもたらす雪が少し、などが必要な小道具であるが、この作品は、我々の(ベルリンの)舞台ではまだ上演されてはいないからである。だが、我々はこれを上演するのにヴァイマールの人々以上のものをあり余るほど持っているのだ。イフラントのような男優、ベートマンのような女優、それに息子を演ずるための俳優を。出来うるなら、この小さな記事が(我々の劇場での上演に対する)意味と良き意志とを喚起してほしいものである」とあるが、これはこの話に関する解説ではなくヴェルナーの作品『二月二十四日』に関する解説である。また、この新聞がこの話を「感動的な話」と言ったのは、子供が屠殺ごっこで他の子を殺したことではなく、その子供の裁き方と、裁きの場での子供の行為であるとみられている[1]。 アヒム・フォン・アルニムは、ヴィルヘルム・グリムに対して、「すでに私は、子どもが別の子を殺すという作品について、或る母親が、とても自分の子どもたちにはこの話は聞かせられない、と嘆いているのを聞いたことがあります」と非難しているが、これに対してヴィルヘルム・グリムは、「私は子供の頃、母から屠殺ごっこの話を聞いたことがありますが、それで私は遊ぶとき十分気をつけるようになりました」と反論している[3]。 ヴィルヘルムにとって書物から話をとる際の基準は「最終的に口伝えに由来するという主張あるいは推測、注目に価する内容、適度に芸術的な語り方、この三つである」とされている[4]。しかし、この『子供たちが屠殺ごっこをした話』はいずれも基準を満たしており、削除事由はこの判断基準によるものではない上[5]、ヴィルヘルムのアルニムに対する反論や、削除記号が目次欄にはあって、本文欄には記載がなかったこと(目次欄にはヤーコプ・グリムが記入し、本文欄にはヴィルヘルム・グリムが記入したとされている)などから[6]、ヴィルヘルムは削除に積極的ではなく、削除事由はアルニムの指摘した「残酷性」への非難に対抗しきれなかったからとされている[7]。また、この非難には「産業革命の進行によって急激に起こった家族構造の変化」という時代背景があるという指摘がある[8]。 この節には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2017年6月) 井原西鶴の裁判小説集・『本朝桜陰比事 この話は、殺人事件の加害者が思慮分別のない子供である点、また裁判の方法として、子供が喜びそうな品物と金貨を加害者に見せ、加害者が金貨を取ったら死刑、もう一方の品物を取ったら無罪とする条件においては上記のグリム童話と共通している。しかし、最終的に加害者がどちらを取っても死刑を回避できるように配慮されている点において、グリム童話とは異なる日本の文化の独自性を見ることができる。なお、『本朝桜蔭比事』が出版されたのは元禄2年(1689年)で、グリム童話集の初版本(1812年)が出版されるよりも以前であるが、『本朝桜蔭比事』の元禄2年刊の初版本は現存していない。
童話に掲載したことへの非難と第二版以降での削除
類似話
脚注”. 学習院女子短期大学紀要 第30号. 学習院女子短期大学. pp. 3-5. 2020年3月23日閲覧。