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嬉野 秋彦(うれしの あきひこ、1971年4月19日 - )は、日本の小説家。栃木県出身。東京都杉並区在住。 1994年、横浜国立大学在学中に『皓月に白き虎の啼く』で第3回集英社ファンタジーロマン大賞を受賞。同作品はデビュー作でもある。 作風はライトノベル的で、中でもファンタジーを最も多く手掛ける。中国宋代伝奇をモチーフとした重厚な作品からギャグ小説まで幅広く取り扱っている。 テレビゲームが趣味で、ゲーム関係のノベライズも手掛けている。特にSNKの格闘ゲームを愛好し、「KOF信者」を自認している。#SNKとの関係も参照。 デビューが決まる前の1994年の1月は大学4年目が終わろうとする時期にもかかわらず、卒業の見込みがない状態だった。当時は、本屋でのバイトと読書、ゲーム、それに小説の執筆に明け暮れていて、ろくに大学にも通っていなかった。留年が決定しており、しかも3か月後にはそれまで住んでいたマンションを出ていかなければならない状況にあった嬉野は、絶望のどん底にいた。そういうわけでデビューが決まった時は作家としてやっていける保証などまったくなかったにもかかわらず、これでもう好きなことだけやって生きていけると本気で思い込んでいたが、実際のところはそのあとまた暗澹たる気持ちにさせられることとなる。スーパーファンタジー文庫(以後SF)というのはコバルト文庫のイトコみたいなもので、毎月の発刊点数が2、3点しかなく、新人の嬉野には4か月に1度しか刊行のチャンスが回ってこなかった(デビュー作が売れなかったのもあるようだ)。嬉野はデビュー直後『コミックゲーメスト』で、コミック版『餓狼SP』の原作ストーリーを読者から広く公募するという企画に応募し、2作残った最終選考で落とされたもののその応募作での縁でゲーメストZ文庫の立ち上げにかかわることになり、ヴァンパイアハンターのノベライズを担当した。96年のアタマ、Z文庫の2冊目が出た直後あたりにSF文庫の担当に知られよそで書かないようにと言われたものの、実は角川スニーカー文庫で書くことも決めていた。 95年11月頃当時のスニーカー文庫の編集長が、「最近誰か注目している作家はいませんか?」と秋津透に尋ねたところ、中国モノが好きな秋津が名前を出してくれた。そこで編集長が連絡を取ろうとしたのだが、当時のSF文庫(=コバルト文庫)は、会社をまたいだ編集者同士の横のつながりがなく、連絡先を知る方法がなかった。ところが、当時のスニーカー編集部に、ゲーム系の編集プロダクション出身で少し前までゲーメスト編集部に出入りしていた編集者がいて、Z文庫の担当を介して連絡が来たのである。時期を見て(ありていにいえば事後承諾の形で)、集英社に話を通す予定だったが何かの手違いで、『ザ・スニーカー』の予告に名前が載ってしまった。これが書店に並んで集英社の担当の目に留まれば、こっそりスニーカーと仕事を進めていたことがバレてしまう(本当は、予告にも名前は出ないはずだった)と思い、どうやっても集英社にスニーカーの仕事がバレるとなった嬉野は、覚悟を決めてこの段階でみずから打ち明けることにした。『ザ・スニーカー』最新号が出るのを待って、こちらから編集部に電話を入れたのである。しかし、担当は『ザ・スニーカー』に目を通しておらず、嬉野は「この担当さんは、おそらくラノベの編集業務が意に染まない仕事だったのだとは思うが、ラノベに対しても、それを書く作家(すなわちぼく)に対しても、あまり関心がない人だった。もしバリバリにやる気のある担当さんであれば、当然ライバルレーベルである角川の『ザ・スニ』にも目を通していただろうし、それ以前に、95年の夏の段階で、ぼくがZ文庫で書いていることにも気づいていただろう。まがりなりにも新レーベルの創刊ラインナップだったんだから」と語っている。 関心の薄い担当でも、さすがに自分のところの受賞作家が、スニーカー文庫というメジャーレーベルで無断で仕事をするのはまずいと思ったらしく、結局その日の夜(長い電話でのやり取りが終わったあと)、神保町に呼び出され、発行を差し止めるよう言われた。秘密裡にことを進めてきたということは、いわば集英社に対して騙し討ちを仕掛けたようなものであるから、後ろめたさはあったものの、かといっていまさら発行を差し止めるつもりもない。最悪、これを最後に集英社から干されるかもしれないことも覚悟の上で、いいたいことをすべてぶちまけた。 スニーカーではイラストレーター選定の段階から著者の意見を聞いてくれ、キャラクターデザインやイラスト位置にも口を出せるが、SFではそれができない。スニーカーではイラスト点数が多く、カラー口絵もあるが、SFでは口絵すらなかった。スニーカーでは雑誌媒体でのフォローがあるが、SFではデビュー時でさえ何のフォローもなかった。デビュー時は孤立無援で、『大賞受賞作!』と書かれた帯以外、新人作家の自分をアピールしてくれるものは何もなかった。こんなことならコバルト大賞に送るべきだと思った。あっちなら定期的に雑誌の仕事を回してもらえたかもしれない。さして売れているわけでもない外様の自分を、スニーカーはプッシュして売ろうとしてくれていて、それを断る理由はない。「……そういうことであれば、これまでのように仕事をお願いすることはできなくなるかもしれませんよ?」というのが、担当の最後の言葉だった。そしてそのあと実際に、SF文庫からの連絡は途絶え、嬉野も連絡しなかった。 半年後に何事もなかったかのように担当から電話がかかってきて、コバルトで出す流れになった。スニーカーでのチキチキ美少女神仙伝 !(チキチキシリーズ)が、これまでで一番売れていたからではと嬉野は推測している。
概要
人物
デビューから集英社との途絶
集英社との関係回復
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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