婦女界社
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株式会社婦女界社
Fujokaisha Co., Ltd.
種類株式会社
市場情報消滅
本社所在地 日本
東京市麹町区九段4丁目13番地
(現在の東京都千代田区九段南4丁目)
設立1912年11月28日
業種情報・通信業
事業内容出版業雑誌書籍等の発行)
代表者都河龍
主要株主都河龍
関係する人物都河辰夫
都河吉夫
倉石忠雄
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株式会社婦女界社(ふじょかいしゃ)は、かつて存在した日本の出版社である[1][2]婦人雑誌婦女界』を同文館から引継ぎ、編集発行したことで知られる[1][2]
略歴・概要婦女界 境遇物語号』(婦女界社、1921年10月号)。『婦女界 復刊二周年記念新年特大号』(婦女界新社、1950年1月号)。

羽仁吉一羽仁もと子夫妻による婦人之友社にいた都河龍(つがわ しげみ、1880年 - 没年不詳)が、同文館(現在の同文舘出版)が編集発行していた婦人雑誌婦女界』の権利の譲渡を受け、1912年(大正元年)11月28日に設立、『婦女界』は、1913年(大正2年)1月発行の第7巻第1号から同社が編集発行を開始した[3][4]。1920年(大正9年)には、『母之友』を創刊している[1][2]。1922年(大正11年)3月18日には、同社社主の都河は、画家の岡本一平とともに世界一周の旅に出発、その様子を同年、『世界一周名所写真帖 創立十周年記念』として出版する[5][6][7]。設立時の所在地は不明だが、1923年(大正12年)に落成した麹町区永楽町1丁目1番地(現在の千代田区丸の内1丁目4番1号)の丸ノ内ビルヂング355号に入居している。戦後、衆議院議員になる倉石忠雄が1920年代に入社しており、都河の次女と結婚し、のちに常務取締役に就任している。1930年代には、麹町区九段4丁目13番地(現在の千代田区九段南4丁目)に移転している[8]

第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)3月、『婦女界』の休刊を余儀なくされたが、同大戦終結後の1948年(昭和23年)1月、編集発行を再開する[1][2]。1950年(昭和25年)7月26日に行われた第8回国会大蔵委員会での宮腰喜助議員の指摘によれば、当時の財団法人交通公社(現在の公益財団法人日本交通公社)は、前年に、婦女界社に対して4,000万円にのぼる融資をしていたとのことであり[9]、このころには、同社は「婦女界新社」[10]と改称、同年1月発行の第38巻第1号は「復刊二周年記念新年特大号」と銘打ったが[11]、同年内には、再度休刊してしまった[12][13]。『婦女界』は、1952年(昭和27年)、主婦の友社出身の西村邦子による、同社とは別組織の婦女界出版社(現在のオクターブ)が再復刊したが、同年11月には休刊している[2]

1953年(昭和28年)発行の『文藝年鑑 一九五三年版』には、「新婦女界社」[14]は、都河龍を代表とし、『新婦女界』を発行し、渋谷区代々木千駄谷四丁目713番地に社を構えている旨の表記がある[15]。婦女界社ならびに婦女界新社(あるいは新婦女界社)のその後の活動は不明であるが、同社の刊行物は、大空社が『傳記棚橋絢子刀自』(中村武羅夫、1938年)を1989年(平成元年)に、『越えて来た道』(都河竜、1930年)を1992年(平成4年)に、『南方地名辞典』(南洋事情研究会、1942年)を2007年(平成19年)に、女性モード社が『正しい化粧と着付』(遠藤波津子、1926年)を1997年(平成9年)に、それぞれ復刻されている[1]
創業者

創業者で社主の都河龍(つがわ しげみ、1880年 - 没年不詳)は、広島県山県郡山廻村に都河大亮の次男として生まれ、上京して東洋大学に学び、明治40年(1907年)ごろ、同文館(代表・森山章之丞、明治29年創業)の雑誌『商業と教育』『婦女界』の編集に携わった[16][17]。明治43年には羽仁吉一が『婦女界』の編集責任者、都河が編集、石川武美が営業を担当した[18]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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