株式会社婦人生活社
Fujinseikatsusha Co., Ltd.種類株式会社
市場情報解散消滅
本社所在地 日本
〒113-0034
東京都文京区湯島2-19-5
設立1947年2月1日
業種情報・通信業
事業内容出版業(雑誌及び書籍等の発行)
代表者原田邦穂
株式会社婦人生活社(ふじんせいかつしゃ)は、かつて存在した日本の出版社である[1][2][3][4]。月刊婦人誌『婦人生活』の編集・発行元であり、「ガーデニング」を流行させた雑誌『私の部屋ビズ』の発行元[5]、「公園デビュー」を命名した雑誌『プチタンファン』の編集・発行元としても知られる[4]。 1947年(昭和22年)2月1日、講談社出身で元『講談倶楽部』編集長の原田常治が「株式会社同志社」として設立する[2]。同年5月、月刊婦人誌『婦人生活』を創刊する[6]。同誌は、創刊から5年の1952年(昭和27年)には、『主婦の友』『主婦と生活』『婦人倶楽部』と並ぶ「戦後四大婦人雑誌」と呼ばれ、発行部数も50万部を超えた。この勢いから、原田は、その出身である講談社創業者・野間清治と比較された[7]。ジャーナリズムの思惑はともあれ、「戦後四大婦人雑誌」の時代は以降40年つづくことになり、その礎となった[8]。1957年(昭和32年)5月、監修に田中千代を迎え、『服装
略歴・概要
創立から私の部屋まで
1963年(昭和38年)8月、社名を「株式会社婦人生活社」と改称する[9]。
1969年(昭和44年)10月1日、関連会社として「株式会社婦人生活事業部」(現在の株式会社クックアンドライフ社)[10]を設立する[11]。同年、雑誌『ベビーエイジ』を創刊する[12]。1972年(昭和47年)1月、『私の部屋』を創刊する[13]。1973年(昭和48年)4月、創立者・原田常治が勲四等瑞宝章を受章する。同年5月23日、前年末から『私の部屋』と連動した店舗展開を開始した生活雑貨店「私の部屋」が株式会社化、「株式会社私の部屋」(現在の私の部屋リビング)が設立される[13]。1974年(昭和49年)3月、同月発行の『服装』第18巻第3号をもって、同誌の発行を田中千代学園に譲渡する[9]。
1975年(昭和50年)、雑誌『セサミ』を創刊する[14]。
1977年(昭和52年)8月23日、創立者・原田常治が満74歳で死去する[15]。当時満46歳の原田稔が二代目社長に就任する[15]。 1979年(昭和54年)5月、雑誌『素敵な女性
婦人生活休刊
1986年(昭和61年)8月、第40巻第8号をもって、社名ともなった『婦人生活』を休刊する[6]。
1988年(昭和63年)、「婦人生活ベストシリーズ」として『ログハウスプラン』[19]、家庭介護誌『やさしい手』をそれぞれ創刊する[20]。1989年(平成元年)、雑誌『手づくりママキディ』(編集マイルーム出版)を創刊する[21]。同年、「婦人生活ベストシリーズ」として季刊『手づくり木工事典』を創刊する[22]。1992年(平成4年)5月、『私の部屋』をリニューアルし『私の部屋ビズ』を創刊する[5][23]。同年、「『私の部屋』別冊1」として『カントリークラフト』(編集マイルーム出版)を発行[24]、翌1993年(平成5年)、『私の部屋』別冊『カントリークラフト』をムック形式の定期刊行物として創刊する[25]。
同年9月1日、二代目社長の原田稔が満62歳で死去する[15]。原田邦穂が三代目社長に就任した[2]。
1997年(平成9年)、『私の部屋ビズ』が生んだ「ガーデニング」の語が同年の「第14回新語・流行語大賞」で「1997 トップテン入賞」を果たし、編集長八木波奈子が同賞を授賞するも[5][26]、1998年(平成10年)9月、同年秋号をもって『私の部屋ビズ』の発行をやめ、翌年から同誌はプレジデント社から発行されることになる[23]。 2002年(平成14年)10月、『マタニティ』『ベビーエイジ』『プチタンファン』『セサミ』の4誌合同企画のインターネットサービス「子育てF-Net」を開始する[27]。 同年11月に発行した『カントリークラフト vol.36』をもって、同社が刊行する同誌の最終号となり、同誌の営業権は日本ヴォーグ社
破産
2003年(平成15年)1月、『ベビーエイジ』第34巻第2号を発行、通巻397号に及んだ同誌の最終号となり[12]、同じく同月、『プチタンファン』第23巻第1号を発行、通巻202号に及んだ同誌の最終号となり[17]、同じく同月発行された『マタニティ』もこの2月号が同誌の最終号となり[18]、同じく同月発行された『手づくり木工事典』もこの2月号が通巻54号に及んだ同誌の最終号となる[22]。その他、数多くのムックシリーズが中断する。