婦人之友
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羽仁 もと子(はに もとこ、1873年9月8日 - 1957年4月7日)は、日本で女性初のジャーナリスト。また、自由学園の創立者。また家計簿の考案者としても知られている。

はにもとこ羽仁もと子
生誕羽仁もと
1873年9月8日
青森県八戸市
死没 (1957-04-07) 1957年4月7日(83歳没)
東京都東久留米市
死因心臓衰弱
墓地雑司ヶ谷霊園
国籍 日本
出身校明治女学院
職業思想家
教育者
ジャーナリスト
著名な実績日本人女性初ジャーナリスト、自由学園創設、婦人之友社起業、全国友の会創設
宗教キリスト教無教会主義
配偶者羽仁吉一
子供羽仁説子 羽仁涼子 羽仁恵子
親戚羽仁五郎
受賞藍綬褒章

目次

1 来歴

2 親族

3 著書

4 脚注

5 参考文献

6 関連人物

7 外部リンク

来歴 雑司ヶ谷霊園にある墓

1873年(明治6年) 本名羽仁もと子(旧姓松岡)とし、青森県八戸市に生まれる。

1889年(明治22年) 上京し、東京府立第一高等女学校2年生に編入。

1890年(明治23年) 東京女子高等師範学校を目指すも不合格となる。この年洗礼を受け、生涯にわたってキリスト教を信仰したが、教会に属さない無教会の立場であった。

1891年(明治24年) 「女学雑誌」の編集長である巌本善治が校長を務める明治女学校高等科に入学。明治女学校在学時には「女学雑誌」の校正を手伝い雑誌作りの基礎を学ぶ。

1892年(明治25年) 帰郷し尋常小学校盛岡女学校の教員をし、その後結婚するが、まもなく離婚。

1897年(明治30年) 再度上京し、報知社(現・報知新聞社)に入社[1]報知新聞の校正係の職を得て、機会あるごとに自主的に書いた原稿で実力を認められて記者に登用され、日本で初めての女性ジャーナリストとなった。家庭生活の合理化を唱え、思想家としても著名である。

1901年(明治34年) 職場で知り合った羽仁吉一と再婚、その後まもなく報知新聞を退職し、吉一が高田新聞社に勤めるのにあたり、新潟へ

1903年(明治36年) 女性雑誌「家庭之友」を創刊。

1908年(明治41年) 羽仁夫妻が独自に出版していた雑誌「家庭女学講義」を「婦人之友」へと改題した。同時に婦人之友社設立。

1914年(大正3年) 婦人之友の姉妹誌として、子ども向けの「子供之友」も出版。しかし、国家総動員法のもとで日本出版会による統制によって、「婦人之友」を残して「子供之友」は廃刊となった。戦後に福音館書店から刊行されるようになった「こどものとも」は、この誌名を譲渡されたものである。

1921年(大正10年) 読者の子への家庭的な教育を目指して、当初は女学校として東京・旧目白(西池袋)に自由学園を創立した。その名称は新約聖書の「真理はあなたたちを自由にする(ヨハネによる福音書 8:32)」に由来している。創立当時、来日していたフランク・ロイド・ライトはファミリースクールへの共感から積極的に校舎の設計を引き受け、後に自由学園明日館として国の重要文化財の指定を受けて一般に公開されている。

1925年(大正14年) 学校規模の拡大により、現在の東京都東久留米市に購入した学校建設予定地周辺の土地を関係者などに分譲し、その資金で新しい学校施設を建設して移転。

1930年(昭和5年) 全国の「婦人之友」愛読者により「全国友の会」を設立。

1957年(昭和32年) 脳血栓の後、心臓衰弱のため死去。墓は雑司ヶ谷霊園にある。

親族

羽仁吉一 - 報知新聞編集長、その後高田新聞社編集長などを経て婦人之友社設立。自由学園では学園主を務める。

妹 千葉くら - 青森八戸の千葉学園創立者

弟 松岡正男 - 京城日報社社長 毎日申報社社長 時事新報社社長。その娘に評論家の松岡洋子


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