威仁親王妃 慰子
有栖川宮妃
身位親王妃
敬称殿下
出生1864年3月15日
加賀国石川郡尾山、金沢城
死去 (1923-06-30) 1923年6月30日(59歳没)[1]
日本・東京府東京市、有栖川宮邸
埋葬1923年7月6日
豊島岡墓地
配偶者有栖川宮威仁親王
子女績子女王
栽仁王
實枝子女王
父親前田慶寧
母親久徳尋子
役職将校婦人会
威仁親王妃慰子(たけひとしんのうひ やすこ、1864年3月15日(文久4年2月8日) - 1923年(大正12年)6月30日[1])は、日本の皇族。有栖川宮威仁親王の妃。加賀藩最後の藩主の前田慶寧侯爵の四女、母は久徳尋子[3]。有栖川宮家最後の皇族となった。 文久4年2月8日、前田慶寧の四女として、金沢城中で生まれる[3]。 幼少期は男子に優る活発さであった[3]が、貴婦人になるべく教育を受け、漢学は野口之布
生涯
生い立ち
1876年(明治9年)10月、有栖川宮家側から威仁親王の妃に望まれ、11月8日に前田家側も受諾した[7]。ただし、結婚は有栖川宮家の後継者問題[注釈 1]の決着後にするよう宮内省からの内々の指示があったため、結婚は見合わせられた[7]。 1878年(明治11年)5月18日、明治天皇の勅許により、威仁親王を有栖川宮家の後継とすることが認められた。これを受け、同年11月30日に威仁親王と前田慰子の縁組を願い出、12月3日に勅許された[7]。威仁親王の海外留学を経て、帰国後の1880年(明治13年)11月28日に納采の儀が行われた[7]。そして、12月11日に結婚の儀が執り行われた[7]。 結婚後は義兄の熾仁親王から有栖川流書道を伝授されると、すぐに上達して奥義に達した[4][5]だけでなく、和歌は高崎正風に師事した[5]。英仏会話も習い、流暢な会話ができた[5]。 1885年(明治18年)10月17日午後6時に第1女子を出産、10月23日の御七夜で績子女王と命名される[8]。績子女王誕生直後の19日に、威仁親王は東北巡航のため出発したが、慰子妃の病のため同月29日に急遽帰邸した[9]。1886年(明治19年)9月30日、績子女王は脳水腫によって急逝する[10]。 1887年(明治20年)9月22日 に第1男子を出産、翌23日に栽仁王と命名される[11]。翌1888年(明治21年)年6月20日から9月13日まで、栽仁王の他に義母の森規子
結婚と外遊
同年11月に威仁親王の海外軍事視察の計画が持ち上がった。慰子妃は予てから欧州各国の王室の活動(内廷、子女教育、社会事業)に関心があり、また小松宮彰仁親王が妃同伴で洋行した前例もあることから、威仁親王に同行することを強く希望した[13]。