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出典検索?: "姫路藩"
(軍艦旗[1])
公用語日本語
首都姫路
藩主
1600 - 1613池田輝政
1868 - 1871酒井忠邦
変遷
成立1600年
廃藩置県により消滅1871年
現在 日本・兵庫県
姫路城下と街道沿いの町割りを描いた「姫路城下絵図」。文化3年(1806年)。姫路藩歴代藩主居城姫路城
姫路藩(ひめじはん)は、播磨国飾東郡にあって現在の兵庫県西南部を治めた藩。藩庁は姫路城(姫路市)。藩主ははじめ外様の池田家で、のち譜代大名が転々とした末に、1749年(寛延2年)から廃藩置県までは徳川譜代の名門酒井氏で続いた。石高ははじめ52万石、のち15万石。
歴史
前史 姫路藩初代藩主池田輝政
現在の姫路市域はもともと播磨の守護大名赤松氏の地盤であったが、戦国時代には赤松氏宗家が衰えて赤松氏支流の小寺氏の勢力下に入り、姫路城は小寺氏の重臣黒田氏が居城としていた。織田信長の勢力が中国路に伸び、その重臣羽柴秀吉が播磨に進出してくると、黒田孝高(官兵衛)は秀吉に居城姫路城を譲り、織田家の中国制覇の根拠地となる。秀吉が信長の後継者となって大坂城に移った後も黒田家には返却されず、秀吉の正室北政所(ねね)の実兄木下家定が2万5000石を領して姫路城主となった。 1600年、徳川家康によって木下家は備中足守に移され、関ヶ原の戦いの戦功により三河吉田に15万石を領する池田輝政が播磨一国52万石を与えられて姫路に入封し、姫路藩が成立した。輝政が一躍3.5倍の大封を与えられたのは、その後妻が家康の愛娘督姫(北条氏直未亡人)であった縁によるが、輝政の嫡男利隆は前妻との間の息子であったため、さらに督姫の生んだ次男忠継に備前岡山28万石、三男忠雄に淡路一国6万石が与えられた。さらに輝政の弟長吉は兄と別に因幡鳥取6万石を領していたので、池田家は徳川家の准一門として畿内近国の西縁に一家で総計100万石に近い領土を有するに至った。この雄藩池田家の居城としてふさわしいよう、播磨52万石の表高の2割打ち出し検地を行なうなどの強烈な苛政を極め、一国の総力をあげて築城されたのが国宝姫路城である。本城姫路城の他に三木城(伊木忠次)・明石城(船上城)(池田利政)・高砂城(中村正勝)・龍野城(鶏籠山城)(荒尾成房)・平福城(利神城)(池田由之)・赤穂城(加里屋城)(池田長政)を支城として配置した。 1613年、輝政が没すると、姫路藩を継いだ嫡男利隆は、次男忠継の夭折後に岡山藩を継いでいた三男忠雄に播磨国内西部の13万石を譲り、39万石となった。
池田家時代