姫田忠義
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姫田忠義人物情報
全名姫田忠義
生誕 (1928-09-10) 1928年9月10日
日本兵庫県神戸市
死没 (2013-07-29) 2013年7月29日(84歳没)
日本
出身校神戸経済専門学校
学問
研究分野映像民俗学
研究機関民族文化映像研究所
主要な作品「イヨマンテ」(1977年)
「越後奥三面 山に生かされた日々」(1984年)
影響を受けた人物宮本常一
萱野茂
影響を与えた人物小田雄三
エバレット・ブラウン
浜美枝
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姫田 忠義(ひめだ ただよし、1928年9月10日 - 2013年7月29日[1])は、日本のドキュメンタリー映画監督、映像民俗学者。株式会社民族文化映像研究所(民映研)名誉所長。特定非営利活動法人地球ことば村・世界言語博物館」顧問。

中央大学経済学部名誉教授で中国近現代史研究者の姫田光義は弟。長男はフルート演奏家の姫田大。次男の姫田蘭はミュージシャン、プロデューサー、民族文化映像研究所ブログ「民映研ジャーナル」担当。
略歴

兵庫県神戸市和田岬に生まれる。父はガス会社の工員であった。兄や姉は高等小学校どまりであったが、国鉄で働いていた9歳年上の兄の援助で、1941年に兵庫県立第四中学校に進学。

1944年に志願して予科練に入隊。三重海軍航空隊から、高知県の浦戸海軍航空隊に移る。しかし飛行兵でありながら、飛行機不足のため、一度も飛行機に乗ることはなかった。1945年、戦局が悪化すると特攻隊にも志願し、人間魚雷「回天」での突撃候補となるが、そのまま敗戦を迎える。

戦後、沖仲仕をしながら、旧制神戸経済専門学校(新制神戸商科大学の前身、現在の兵庫県立大学)に通学。卒業論文は人間の価値を哲学的に考える「価値論」をテーマにしたが、書きあげることができず、教授の温情で卒業を迎えられた。

住友金属工業に入社し、尼崎工場の労務課に配属され、のちに大阪の本社に移る。なお、大阪本社時代の上司は与謝野鉄幹の息子であった。社内の演劇活動に誘われて参加し、演劇に熱中する。そのため、住友金属工業を5年で退社。

1954年に上京して、八田元夫が主催していた「演出研究所」(のち「演出劇場」)に、演出家志望として入る。上京から半年後、「日本読書新聞」に掲載されていた民俗学者宮本常一の記事に興味を抱き、日本常民文化研究所の宮本を訪ねて、その人間的魅力に圧倒されて師事する。様々な職業につきながら、劇団活動を続けるが、その人間関係に嫌気がさし、演出研究所を3年で退団。NHKの人形劇「チロリン村とくるみの木」の演出を担当する。この時、人形遣いの水田外史と知り合う。

1958年、宮本常一から薦められた対馬に渡り、ほとんど資金がないまま、15日間にわたって村々を訪ね歩く。この際に出会った60歳の老人から、父親の借金を一生をかけて返済した話をされる。「わしは、あんたにこの話をするためにいままで生きてきたようなものだ」と言われて衝撃を受け、この言葉が以降の活動の原点となる。その後は教養番組のシナリオライター業に従事。1961年にはカメラマンの伊藤碩男(のちに民映研の創立に参加)とともに、再度、対馬を訪れ、人々の姿をフィルムに撮影する。

1965年から1966年にかけて製作された、宮本常一が監修をつとめたテレビドキュメンタリー「日本の詩情」の取材・脚本・構成を担当。日本各地の村々を取材して周り、日本列島の多様性に目覚める。その後も、宮本主催の雑誌「あるくみるきく」の取材などで、山村文化に注目して日本中の山々をめぐり、また沖縄アイヌの人々などを訪ね歩く。

1968年アイヌ文化研究者の萱野茂と出会い、アイヌの深い精神文化を教えられて感銘を受ける。その後、萱野の著書執筆への協力活動や、萱野のアイヌ文化復興活動を映像におさめるなど、生涯にわたる交流を続けることになる。


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