ひめしまむら
姫島村旗姫島村章
1976年(昭和51年)制定
国 日本
地方九州地方
都道府県大分県
郡東国東郡
市町村コード44322-1
法人番号7000020443221
面積6.99km2
総人口1,521人 [編集]
(推計人口、2024年4月1日)
人口密度218人/km2
隣接自治体国東市(海を挟んで隣接)
村の木黒松
村の花野路菊
姫島村役場
村長[編集]藤本昭夫
所在地〒872-1501
大分県東国東郡姫島村1630番地の1
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度43分28秒 東経131度38分43秒 / 北緯33.72447度 東経131.64517度 / 33.72447; 131.64517座標: 北緯33度43分28秒 東経131度38分43秒 / 北緯33.72447度 東経131.64517度 / 33.72447; 131.64517
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姫島村(ひめしまむら)は、大分県の北東部にある東国東郡の村。姫島全域を行政区域とする。大分県内で唯一の村であり、東国東郡に属する唯一の自治体でもある。 国東半島の北、瀬戸内海西端、周防灘と伊予灘の境界に位置する離島を村域とする。国東市国見町の中心部(伊美地区)から約6kmの海上に位置する。島の長さは東西約7km、南北約4kmで東西に細長い形をしている。島中央部に標高266mの矢筈山、島西端に標高105mの達磨山、島西北部に標高62mの城山があり、この3つの山の間が中心集落になっている。 村内に大字は存在せず、全域が「姫島村××番地」と表記する。 「姫島」という地名の由来は、日本書紀にある意富加羅国の王子の夢枕に立ち、日本に逃げた美女の比売語曽(ひめこそ)からきているという説あり、村内にそれを祀った比売語曽社がある[1]。 『古事記』の国産み神話でイザナギとイザナミが12番目に産んだ女島(天一根)に比定されている[2][3][注釈 1]。 姫島産の黒曜石で作られた石器が中国地方、四国地方の縄文時代遺跡から発見されており、この時代に広く交易が行われていたことを示している[4][5]。 平安時代末期頃からは宇佐八幡宮弥勒寺領となった[6]。その後は大友氏の水軍・浦辺衆の根拠地の1つとなる。江戸時代は杵築藩領となり、大友家重臣の血筋といわれる古庄家が庄屋として島を治め、製塩業や甘藷栽培など殖産興業に務めた[7]。 姫島の中央低地の海岸は遠浅で、慶長年間には塩田が開かれた[2]。 1864年(文久3年)の下関戦争では英、米、仏、蘭の連合艦隊が、関門海峡に近い要衝である姫島を拠点とした。その際、イギリスから帰国した伊藤博文、井上馨が調停のため来島している(その時の両名や島民の様子について英国外交官アーネスト・サトウが記録)。また幕府の軍艦奉行勝海舟が、戦闘終結後に姫島に上陸し、戦闘の模様について情報収集をおこなった[8]。
地理姫島の空中写真(2015年撮影)
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成国東半島と姫島(右上) 1994年にアメリカ航空宇宙局が撮影
位置・地形
地名
歴史
古代
中世
近世
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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