姝子内親王
第78代天皇后
皇后保元4年2月21日(1159年3月12日)
(中宮)
高松院
院号宣下応保2年2月5日(1162年2月20日)
誕生永治元年11月8日(1141年12月7日)
崩御安元2年6月13日(1176年7月20日)
諱寿子 → 姝子(しゅし,よしこ)
氏族皇族
父親鳥羽天皇
母親藤原得子(美福門院)
配偶者二条天皇
結婚保元元年3月5日(1156年3月27日)
子女海恵
姝子内親王(しゅし/よしこないしんのう、永治元年11月8日(1141年12月7日) - 安元2年6月13日(1176年7月20日))は、二条天皇の中宮、女院。女院号は高松院(たかまついん)。 父は鳥羽天皇、その后・藤原得子(美福門院)を母として生まれる。同母兄に近衛天皇、ワ子内親王(八条院)は同母姉にあたる。 久安2年(1146年)2月17日、6歳で着袴の儀を行う。久寿元年(1154年)8月18日、14歳で内親王宣下を受けて「寿子」と命名された。ところが、藤原頼長が「『春秋左氏伝』桓公16年によれば、寿は衛の宣公の子で殺害された人物なので縁起が悪い」と反対したため、29日に「?子」と改名された(『台記』)。 久寿2年(1155年)7月23日に同母兄の近衛天皇が崩御したことで、異母兄の雅仁親王(後白河天皇)が即位する。これは、美福門院の養子となっていた雅仁の子への皇位継承を前提としたものだった。9月23日、後白河帝の第一皇子は親王宣下を受けて「守仁」と命名され、即日立太子する。12月9日、守仁親王は元服し、翌保元元年(1156年)3月5日、?子内親王は16歳で守仁の妃となった。この婚姻には、美福門院の意向が大きく反映していたと思われる。 ?子内親王は異母姉・統子内親王の猶子となっていたため、統子内親王の三条高倉邸で着裳の儀を行い、統子内親王が腰結を務めた(『兵範記』『山槐記』保元元年3月5日条)。鳥羽法皇の意図は分裂状態にあった美福門院派と待賢門院派の融和を図り、後白河帝・守仁親王の体制を安定させることにあったと推測される。この政権構想において?子は、両派を結び付ける要としての役割を担うことになる。この時点では守仁は14歳と幼少であり、当面は後白河帝による執政が必要とされていた。 7月2日、鳥羽法皇が崩御する。直後に起こった保元の乱で崇徳上皇は配流となり、後白河帝・守仁親王の体制が確立した。信西が政治の主導権を握り、保元新制・記録所の設置・内裏再建などの国政改革を推進する。保元2年(1157年)正月23日、?子内親王は准三宮となり、10月8日、再建された大内裏に後白河帝・守仁親王・忻子・統子内親王とともに移った。保元3年(1158年)2月3日、後白河帝は統子内親王の准母立后を行って政治基盤の強化に務めるが、8月11日に突然、守仁親王に譲位する(二条天皇)。これは「仏と仏との評定」(『兵範記』保元3年8月4日条)によるもので、美福門院が信西に強く要求して実現したものであった。ここに後白河院政派と二条親政派が形成される。ただし、二条帝はいまだ16歳で政治に未熟であり、後白河院の政治活動も引き続き認められたため、当初から両派の間に確執があったわけではなかった。 ?子内親王は婚姻後も統子内親王の三条高倉邸を訪れ、後白河院が譲位した直後の宇治御幸にも後白河院・統子内親王に同行した。平治元年(1159年)2月3日、後白河院の御所・高松殿に行啓し、21日に立后して中宮に冊立される(『山槐記』)。後白河院と二条帝は実の親子でありながら疎遠な関係にあり、後白河院は?子と緊密な関係を築くことで影響力の確保を目指したと考えられる。二条帝も?子の背後に父の影を感じていたと思われるが、表面上は何事もなく年も暮れようとしていた。 平治元年(1159年)12月9日、平治の乱が勃発する。25日夜、二条帝と?子内親王は藤原信頼・源義朝が占拠していた大内裏を脱出して、平清盛の六波羅邸に遷幸した。
生涯
婚姻
立后
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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