姜維
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姜維
代の書物に描かれた姜維
蜀漢
平襄侯 / 大将軍
出生建安7年(202年
涼州天水郡冀県
死去景元5年1月18日264年3月3日
?音Ji?ng Wei
伯約
諡号開明王(西魏による追贈)
主君曹叡劉禅
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姜 維(きょう い、建安7年(202年) - 景元5年1月18日264年3月3日))は、中国三国時代の人物。蜀漢に仕えた。は伯約。涼州天水郡冀県の出身。父は姜冏。妻は柳氏[1]。末裔に末の姜宝誼・官僚の姜恪(中国語版)[2]・姜協がいる。
生涯
出生

姜氏は代々「天水の四姓」と呼ばれる豪族だった。10代前半に、郡の功曹だった父が異民族の反乱鎮圧に従軍し戦死したため、母の手で育てられた。郡に出仕して上計掾となった後、召されて雍州刺史の従事となった。その後、かつての父の功績が取り上げられて、中郎の官を贈られ、天水郡の軍事に参与することになった。
蜀への降伏

建興6年(228年)、蜀の諸葛亮北伐にて接近した際、天水太守馬遵とともにその偵察に赴いた。ところが各県の降伏を耳にした馬遵は、配下の梁緒(功曹)・尹賞(主簿)・梁虔(主記)・姜維(中郎)らが諸葛亮と内通しているのではないかと疑い、上?に逃亡した。姜維らは彼を追ったが城内に入る事を許されなかった。このため冀県に戻ったが、そこでも受け入れてもらえなかったため、取り残された姜維らは行き場を失い、仕方なく蜀に降伏した。諸葛亮は街亭の戦いで敗北すると、西県の1000余家と姜維らを引き連れて成都に帰還した。そのため姜維はこれ以後、魏領に残った母と生き別れになった。諸葛亮は「姜維は仕事を忠実に勤め、思慮精密である。涼州で最高の人物だろう」と言い、また「姜維は用兵に秀で、度胸があり、兵の気持ちを深く理解している」などと評するほど、その才を高く評価し、倉曹掾・奉義将軍の官を与え、当陽亭侯に封じている。

裴松之が注で引用する孫盛の『雑記』によれば、姜維の母親が魏に戻るよう手紙を送ったが、姜維は蜀で栄達するという大望があるため戻らないと返事したとある。
蜀軍の中枢へ五丈原諸葛亮廟の姜維像

その後は北伐に従軍し、中監軍・征西将軍に昇進した[3]。建興12年(234年)、諸葛亮の死後は成都に帰還し、右監軍・輔漢将軍を授けられた。また諸軍を指揮・統率する事を許され、平襄侯に進封された。

延熙元年(238年)、諸葛亮の後を継いだ大将軍??は、魏征伐の準備のため大軍を統率して漢中に駐屯し、姜維もそれに従軍した。その後、姜維は司馬に任命され、一軍を率いて何度も西方に侵入した。延熙3年(240年)、羌族の迷当の反乱に呼応して隴西に侵攻したが、郭淮に鎮圧されたため撤退した。延熙6年(243年)、??は北伐を断念して主力軍を漢中から撤退させた。その際、姜維を鎮西大将軍・涼州刺史に任じて北方への備えに残した。同時期に国境を預かる者として鎮南大将軍馬忠、鎮北大将軍王平、東を預かる前将軍ケ芝がいる。延熙10年(247年)には、衛将軍録尚書事と昇進を続け、軍事の中枢を担うようになった。

同年、?山での異民族の反乱を制圧すると、隴西郡に進出して魏の郭淮・夏侯覇らと戦い、これに勝ち[4]この地の異民族を味方に付けた。涼州の胡王である白虎文等が民衆を率いて降ってきたため、これを繁県に住まわせた。?山の平康夷が反したため、姜維はこれを討ち平げた。姜維は還ると、節を假された。延熙12年(249年)、姜維は再び西平に出兵し勝利を得る事なく撤退したが、郭脩を捕らえた[5]。姜維は郭脩を脅迫したが、屈服しなかったという[6]。姜維は、西方の風俗に通じている事や自らの才能と武勇を恃みとし、大規模な北伐軍を起こして諸葛亮の遺志を遂げたいと願っていた。だが、??の後任である大将軍費?は賛同せず、姜維に1万以上の兵を与えなかった。習鑿歯の『漢晋春秋』によると、費?は姜維に対し「我々の力は丞相(諸葛亮)に遥かに及ばない。その丞相でさえ中原を定める事が出来なかったのだ。ましてや我々に至っては問題外である。今は内政に力を注ぎ、外征は人材の育成を待ってからにすべきだ」と語っていたという。
北伐と蜀の衰退

延熙16年(253年)、費?が魏の降将の郭循(郭脩)に刺殺されると、姜維は費?の後を受け軍権を握り、数万の兵を率いて北伐を敢行した。翌年、魏の李簡の寝返りに乗じて狄道県をはじめ三県を制圧し、徐質を討ち取った。さらにその翌年には、魏から亡命してきた夏侯覇らとともに魏の王経を?水の西で大破した。王経軍の死者は数万人に及んだという。(狄道の戦い)この功績により翌延熙19年(256年)に大将軍に昇進した。しかし同年、胡済が約束を破り後詰に現れなかったため、段谷で魏のケ艾に大敗し(段谷の戦い)、国力を大いに疲弊させた。姜維は諸葛亮の先例に倣って、自らを後将軍・行大将軍事へと降格させる事で敗戦の責任を取っている。延熙20年(257年)、魏の諸葛誕寿春で反乱を起こした(諸葛誕の乱)のに乗じて魏に攻め入ったが勝てず、翌景耀元年(258年)に諸葛誕の敗死を聞き撤退した。同年、大将軍に復帰した。こうしたことから国内では北伐への批判が高まり、この頃に?周陳祗との討論を元に、『仇国論』という北伐の無謀さを批判した著書をまとめた。また、朝廷内で数少ない北伐推進派だった陳祗も同年に没し、姜維は孤立した。

このため姜維は北伐を一時中断し、代わりに漢中の守備に手をつけた。姜維は「諸陣営を交錯させて守備する従来の漢中防衛法は、防御力は高いが大勝は期待できません。諸陣営を引き退かせ、兵を漢城・楽城の二城に集中させた上で、関所の守りを重視して防御にあたらせ、敵が攻めてきたら遊撃隊を両城より繰り出して敵の隙を伺わせましょう。敵が疲弊し撤退した時、一斉に出撃して追撃すれば敵を殲滅できるでしょう」と建議した。その結果、胡済を漢寿まで退かせ、監軍の王含に楽城を守らせ、?斌に漢城を守らせた。また、西安・建威・武衛・石門・武城・建昌・臨遠に防御陣を築いた。

姜維は長年に亘り軍事面のみに力を注ぎ、一切内政を顧みなかった。このため劉禅黄皓を重用して酒色に溺れてしまい、国政は混乱した。

景耀5年(262年)、4年振りに北伐を敢行したが、ケ艾に撃退された。涼州出身の姜維は、蜀漢の朝廷内では孤立しがちであったため、同年に黄皓が閻宇と結託し姜維の軍権没収を画策した際には、当時朝政を担っていた諸葛瞻董厥もこれに同調し、益州刺史に任じて成都に留め置かせようとしたほどであった(孫盛『異同記』)。姜維は黄皓を除くよう劉禅に嘆願したが聞き入れられず、また身の危険[注釈 1]も感じたため、これ以後成都に戻る事が出来なくなった。その際に、姜維は趙雲ら蜀設立の功労者に対し、侯の諡を送るべきと劉禅に進言した。設立の功労者らには侯の諡が送られた。


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