姜弘植
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開城市内の映画館

北朝鮮映画(きたちょうせんえいが)は、朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)国籍を持つ者または北朝鮮の法人によって製作された映画で、ほとんどの場合、朝鮮人の映画スタッフと俳優で構成され、主に北朝鮮国内の映画館等で公開される映画を指す。ここでは日本統治が終わった後、南北分断以降に北側で制作された映画および映画をとりまく状況について記述する。


目次

1 歴史

1.1 創成期

1.2 朝鮮戦争期

1.3 復興期

1.4 変革期

1.5 改革期

1.6 先軍期


2 主要監督

2.1 姜弘植

2.2 千尚仁

2.3 尹龍奎

2.4 呉炳草

2.5 朴学

2.6 厳吉善

2.7 金聖教

2.8 李徳奎

2.9 朱東月(チュ・ドンウォル)

2.10 高鶴林

2.11 金徳奎

2.12 チャン・ウンガン

2.13 鄭建朝

2.14 朴正柱

2.15 林昌範

2.16 洪光淳(ホン・グァンスン)

2.17 金吉仁(キム・ギリン)

2.18 金吉夏(キム・ギルハ)

2.19 崔富吉(チェ・ブギル)

2.20 張英福(チャン・ヨンボク)

2.21 李寛岩(リ・グァンナム)

2.22 高一(コ・イル)

2.23 呉恵淑(オ・へスク)

2.24 張仁学(チャン・インハク)

2.25 姜仲模(カン・ジュンモ)

2.26 彪光(ピョ・グァン)

2.27 李柱浩(リ・ジュホ)


3 主要俳優

3.1 朱仁奎

3.2 文藝峰

3.3 沈影

3.4 崔雲峰

3.5 黄K

3.6 金蓮實

3.7 兪源準

3.8 太乙民

3.9 兪慶愛


4 主な撮影所

4.1 朝鮮芸術映画撮影所

4.2 朝鮮人民軍4.25芸術映画撮影所

4.3 朝鮮記録科学映画撮影所

4.4 朝鮮4.26児童映画撮影所


歴史

日本統治時代の映画については日本映画#朝鮮を参照のこと。
創成期朝鮮芸術映画撮影所

日本統治時代より朝鮮半島の映画会社はソウルに集中していたため、分断後の半島北部での映画製作は平壌で新たに創始された。 解放後のソウルで進歩的と言われていた多くの映画人は、次第に左派の政治勢力に取り込まれ、北へ渡った。監督の姜弘植、姜湖、俳優の文藝峰、獨銀麒、羅雄、徐光霽、崔雲峰、金兌鎮、朴学といった人物たちである。初期の映画製作は、カップ系映画人や北に渡った左派映画人が根幹となって行なわれた。1947年、共産党宣伝班内に映画班が設置された。またソ連と中国の協力によって朝鮮国立映画撮影所(現在の朝鮮芸術映画撮影所)が平壌に設立された。北朝鮮の最初の映画は記録映画であった。1949年に最初の劇映画『我が故郷』が姜弘植監督、兪源準と文藝峰主演で撮られた。 1949年、映画製作は2ヶ年人民経済計画に組み込まれた。
朝鮮戦争期

1951年、国立映画撮影所は米軍の爆撃で全焼した。朝鮮の映画人たちは中国の東北電影に疎開し、1953年までそこで映画の製作を続行した。
復興期

休戦後、ソ連、中国、チェコスロバキア、東独などの援助を得て、撮影所が再建された。戦後の建設や復興を描いた劇映画が制作された。 この時期に活躍した主な監督たちは、姜弘植、千尚仁、尹龍奎、呉秉超、朴学、田雲峰、崔益奎といった戦前からの映画人たちで、日本で映画を学んだ者も多い。また朝鮮戦争の直前や戦争中に韓国から渡ってきた映画人も少なくない。 1959年には平壌演劇映画大学ができ、全国に映画館が建設され(現在では国内全土に4500もの劇場がある)、劇場のない農村では移動映写班が上映会を重ねた。
変革期

1967年、金日成の率いる満州パルチザン派に対抗していた甲山派が粛清された。この事件を契機として映画界の反党分子の清算が問題となった時、労働党宣伝扇動部の文化芸術指導課長となった金正日が映画界の改革に着手した。ソ連と西欧から現代的な映画製作設備を導入し、在日朝鮮総連の資金で撮影所の拡張を図り、優秀な人材をソ連に留学させ、文化芸術関係者の社会的処遇を大幅に高めた。金正日の指導によって『血の海』(1969)、『花を売る乙女』(1972)などの佳作が制作された。
改革期

1980年代、大韓民国申相玉監督と女優の崔銀姫が北朝鮮に拉致され、平壌に申フィルムを設立した。申フィルムは、日本香港など外国の映画人との合作を推進し、そして国際映画祭への出品などの積極的改革を進めた。作品の多くは、民衆に熱狂的に受け入れられた。
先軍期

金日成の死去後、金正日が政治権力を継承したが、北朝鮮の経済状況は悪化し、国際的にも孤立が進んだ。核査察問題などで西側諸国から経済封鎖などの制裁を受け、旧東側諸国の友好国の援助も激減し、深刻なエネルギー不足に陥った。さらには自然災害のため深刻な食糧不足が起こった。諸問題の打開策として「先軍政治」が始まると、それは映画にも反映された。「社会主義現実主題」路線の映画と呼ばれる。
主要監督
姜弘植

カン・ホンシク(1902.12.9-1971.10.9.) 平壌市中区万寿洞で商人の家庭に生まれる。1917年3月,高等普通学校2年の課程を終えると、歌手として活動.揺籃期の民族芸術映画にも俳優として参加。1920年代に日本に渡りモダンダンスの石井漠に弟子入り、日活から山本嘉一の弟子として石井輝男の芸名で俳優デビュウし、『正義の強者』、『鉄腕記者』、などの作品に出演。1925年,李慶孫とともに鶏林映画社を組織。カップの作家だった沈薫が台本を『暁の頃』(1927)に申一仙とともに主演。またこの映画の主題歌も歌い、コロンビアレコードで録音した。1930年代は歌手活動と舞台俳優を並行。1939年に全昌根とともに高麗映画社を組織。『洪吉童』(1932)、『荒蕪地』(1936)、『福地萬里』(1940)、『家なき天使』(1941)、『太陽の息子』(1943)などに出演。解放後の1947年2月、平壌に設立された国立映画撮影所(後の朝鮮芸術映画撮影所)の最初の演出家として参加し、初代副所長に就任した。


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