姚襄
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姚 襄(よう じょう、331年[1] - 357年5月)は、五胡十六国時代酋長は景国。姚弋仲の五男で、後秦の創建者姚萇の兄である。
生涯
父の時代

父の姚弋仲は後趙に仕え、暴君といわれる石虎からも一目置かれる存在であった。

姚襄は17歳になると身長は八尺五寸に達し、腕を垂らせば膝下に届くほど長かった。勇健にして威武を有し、知謀にも長けていた。また、物事の本質を見抜くことができ、難民を受け入れてはよく安撫していた。そのため、士民問わずみな彼を敬愛し、姚弋仲へ姚襄を後継に立てるよう求めた。姚弋仲は姚襄が長男でないことから認めなかったが、この請願が1日に数千を超えるほどとなると、姚襄に兵を授けるようになった。

冉閔の乱により後趙が乱れると、姚弋仲は密かに関中に割拠しようと目論んだが、?族酋長苻洪もまた同じ考えを抱いていた。永和6年(350年)1月、姚弋仲の命により、姚襄は5万の兵を率いて苻洪を攻撃したが、大敗を喫して3万の兵が捕らわれた。

2月、冉閔が?で後趙の皇族を虐殺して冉魏を興すと、石祗はこれに対抗して襄国で帝位に即いた。この時、姚襄は石祗より使持節・驃騎将軍・領護烏桓校尉・豫州刺史に任じられ、新昌公に封じられた。

永和7年(351年)2月、冉閔が襄国を百日余りに渡って包囲すると、石祗は姚弋仲へ援軍を乞うた。姚弋仲はこれに応じ、姚襄は2万8千の兵を率いて?頭から襄国救援に向かった。出発に際して姚弋仲は「冉閔は仁を捨て義に背き、石氏を屠滅した。我はかつて石虎より厚い恩顧を賜った。自ら復讐すべきであるが、老病故にそれができない。汝の才は冉閔に十倍する。もし奴を殺すか捕らえるかができないなら、二度と戻って来るな!」と戒めた。

3月、姚襄が襄国に迫ると、冉閔は車騎将軍胡睦を長蘆へ派遣して防がせたが、姚襄はこれを返り討ちにし、その兵をほぼ全滅させた。冉閔が全軍を挙げて出撃すると、姚襄は後趙の汝陰王石?前燕の禦難将軍悦綰らと共に三方から冉閔を撃ち、さらに石祗が後方から呼応した。これにより冉閔は大敗し、死者は10万人を超えた。冉魏を撃破すると姚襄は?頭へ戻ったが、冉閔を捕らえることができなかったので、姚弋仲は怒って姚襄に百杖の罰を加えた。4月、石祗は配下の劉顕の裏切りにより殺され、後趙は滅亡した。

11月、姚弋仲が東晋に帰順すると、姚襄は東晋より持節・平北将軍・并州刺史に任じられ、即丘県公[2]に封じられた。

永和8年(352年)3月、姚弋仲は病を患うと、子の姚襄らへ「我は元々晋室の大乱に遭遇し、石氏の厚遇を受けたために賊臣を討ってその徳に報いようとしたのである。しかし今、石氏はすでに滅び、中原に主君はない。古来より、戎狄天子となった者はない。我が死んだ後は汝らは晋に帰して臣節を尽くし、不義の事をなすことのないように」と述べ、やがて病没した。
東晋に帰順

姚襄はその集団を継承すると、父の死を秘匿して喪を発しなかった。6万戸を率いて南へ進むと、陽平元城発干を尽く攻め落として3千家余りを殺掠し、??津に駐屯した。この時、王亮を長史に、尹赤を司馬に、伏子成を左部帥に、斂岐を右部帥に、王黒那を前部帥に、強白を後部帥に、薛讃・権翼を参軍に任じた。

同月、姚襄は前秦軍と戦うも敗れ、3万戸余りを失った。その後、南下して?陽に入ると、父の喪を発してこれに服した。さらに、前秦の将軍高昌・李歴と麻田で交戦となったが、戦乱の最中に流れ矢が乗っていた馬に当たり、死んでしまった。弟の姚萇は馬を下りて姚襄に差し出すと、姚襄は「汝はどうやって免れるのか」と問うたが、姚萇は「ただ兄を救うのみです。それに、豎子(青二才)がどうしてこの萇を害することができましょうか」と答えた。この後、救援が到来したので、共に難を免れることができた。この戦いで尹赤は前秦に降伏した。

4月、姚襄は配下を率いて東晋に帰順し、5人の弟を人質として建康へ送った。詔が下り、姚襄は?城に駐屯するよう命じられた。その後、姚襄は単騎で淮河を渡って寿春へ赴くと、東晋の安西将軍・豫州刺史謝尚のもとを訪ねた。謝尚は以前より姚襄の名を聞いていたので、武官を引き払わせて平服で出迎えると、まるで旧知の仲のように親しく語らい合った。

6月、謝尚が前秦の征東大将軍張遇の守る許昌を攻めると、姚襄もまたこれに従軍した。前秦君主苻健は丞相苻雄・衛大将軍苻菁に歩騎2万を与えて救援に向かわせた。潁水の誡橋において両軍は激突したが、謝尚軍は大敗を喫し、1万5千の死者を出した。謝尚は淮南へ逃走したが、姚襄は輜重を放棄して芍陂まで謝尚を護衛した。これ以降、謝尚は尽くの事案について、姚襄に付託するようになった。

永和9年(353年)9月、駐屯地を歴陽に移した。前燕・前秦が精強であったことから北伐は時期尚早と判断し、淮河一帯で広く屯田を行い、将士を訓励した。
殷浩との抗争

当時、寿春を鎮守していた東晋の中軍将軍・揚州刺史殷浩は姚襄が強盛である事を妬み、またその威名を恐れていた。ある時、姚襄の配下で殷浩に帰順しようとする者がいたが、姚襄はこれを誅殺した。これを聞いた殷浩は遂に姚襄誅殺を目論み、まずその諸弟を捕らえると、幾度も刺客を派遣して姚襄を刺殺しようとした。だが、刺客はみな寝返って内情を漏らし、姚襄は彼らを旧臣のように遇した。殷浩はさらに将軍魏憬に五千余りの兵を与えて姚襄を襲わせたが、姚襄はこれを返り討ちにして魏憬を斬り殺し、その兵を吸収した。殷浩は益々憎しみを深め、龍驤将軍劉啓に?を守らせ、姚襄を梁国の蠡台に移らせ、上表して梁国内史に任じた。

その後、魏憬の子弟が幾度も寿春を往来するようになると、姚襄は殷浩の謀略を益々疑い、参軍権翼を殷浩の下に派遣した。殷浩は権翼を迎え入れて「我と姚平北(姚襄のこと。この時平北将軍であった)は共に王臣であり、苦楽を同じくしている。平北はいつも勝手に振る舞い、甚だ輔車の理を失しているといえよう。どうしてこれに期待しようか!」と述べると、権翼は「平北の英姿は絶世であり、数万の兵を擁し、遠方より晋室に帰順しました。朝廷が道を有し、宰輔が明哲であるが故です。今、将軍は軽々しく讒慝(邪悪・奸佞)の言を信じ、平北との間に隙が生じております。愚考ながら、猜嫌の端はここにあり、彼にはないかと存じます」と言い返した。殷浩は「平北の姿性は豪邁であるが、生殺を自由にしている。また、小人に好き勝手にさせ、我の馬を略奪させている。王臣の礼とはこのようであったかね」と問うと、権翼は「平北は聖朝に帰命したのに、どうして妄りに無辜を殺しましょうか。悪党というものは王法が容れるところではありません。これを殺してどのような害がありましょうか!」と述べた。殷浩は「それならば我の馬を掠したことはどうなのだ」と問うと、権翼は「将軍は平北が雄武で制するのは難しいことから、これを討伐せんとしております。故に自衛のために馬を取ったまでです」と答えた。殷浩は笑って「どうしてこのようなことになってしまったのだろうな」と述べ、権翼を帰らせてやった。

その後、殷浩は将軍謝万に姚襄を討たせたが、姚襄は返り討ちにした。これにより、殷浩はさらに激怒した[3]


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