姚萇
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武昭帝 姚萇
後秦
初代皇帝

王朝後秦
在位期間386年 - 394年
都城常安
姓・諱姚萇
字景茂
諡号武昭皇帝
廟号太祖
生年建平2年(331年
没年建初9年(394年
姚弋仲
后妃?皇后
陵墓原陵
年号白雀 : 384年 - 386年
建初 : 386年 - 393年

姚 萇(よう ちょう)は、五胡十六国時代後秦の創建者。は景茂。の出身であり、本貫南安郡赤亭(現在の甘粛省定西市隴西県の西部)。南安族の酋長姚弋仲の42人の子の第24子である。兄に姚襄がいる。

父の姚弋仲は羌の勢力を率いる後趙の将であった。兄の姚襄が羌の勢力を受け継いで独立を試みたが、前秦苻黄眉と戦って敗死した。姚萇はこの後に苻堅に降ったが、苻堅が?水の戦いで大敗を喫すると独立して苻堅を弑し、後秦を建国した。姚萇時代の後秦はおもに西燕慕容沖や前秦の残党の苻登と戦った。
生涯
父・兄の時代

父の姚弋仲は南安羌族の酋長であったが、329年9月に後趙へ服属し、暴君といわれる3代君主石虎からも一目置かれる存在であった。やがて冉閔の乱により後趙の支配体制が崩壊すると、密かに元々の根拠地である関中に割拠しようと目論んだが、果たせぬままに病没した。後を継いだ兄の姚襄は当初東晋に称藩するも、やがて自立して大将軍大単于を自称した。姚萇は兄に付き従って各地の征伐に帯同し、いつも重要な策略に参画したという。

やがて姚襄は父同様に関中での自立を模索するようになり、転戦を繰り返して357年3月には遂に関中へ進出したが、三原(現在の陝西省咸陽市淳化県方里鎮)において前秦軍に大敗を喫してしまい、混乱の最中に戦死してしまった。その為、姚萇は敗残兵を纏め上げると諸弟を伴って降伏し、以降は前秦に仕える事となった。
前秦の時代
前秦の勇将

苻堅の時代になると揚武将軍に任じられ、幾度も大きな功績を挙げる事となった。

366年7月、輔国将軍王猛・前将軍楊安と共に、2万を率いて荊州北部の南郷郡を始めとした諸郡へ侵攻した。8月、南陽郡新野県へも侵攻し、漢陽(漢江の北)の1万戸余りを捕らえてから軍を帰還させた。

同年12月、羌族の斂岐が略陽において前秦に反旗を翻して益州刺史を自称し、当時隴西に勢力基盤を築いていた李儼に臣従した。367年2月、姚萇は輔国将軍王猛・隴西郡太守姜衡・南安郡太守邵羌と共に1万7千の兵を率い、斂岐討伐に向かった。3月、前秦軍が略陽へ進撃すると、斂岐の部落民はかつて姚弋仲に属していたので、みな姚萇の到来を聞いて戦わずして降伏した。これにより前秦軍は略陽を制圧し、斂岐は白馬へ逃走した。姚萇は隴東郡太守に任じられ、当地の民の慰撫に当たった。

その後、左衛将軍に任じられ、河東武都武威巴西・扶風などの郡太守を歴任した。やがて再び揚武将軍に復帰して歩兵校尉を加えられ、さらに益都侯に封じられて食邑三百戸を与えられた[1]

また時期不明だが幽州刺史にも任じられている。

371年3月、西県侯苻雅・梁州刺史楊安・益州刺史王統・并州刺史徐成・羽林左監朱?らと共に歩騎7万を率い、当時内乱が勃発していた仇池征伐に向かった。4月、前秦軍が鷲峡(仇池の北にある)へ進撃すると、楊纂(仇池の君主であるが、当時叔父の楊統と公位継承権を争っていた)は5万の兵を率いて応戦し、さらに東晋の梁州刺史楊亮は督護郭宝・ト靖に千騎余りを与えて楊纂を援護させた。前秦軍は峡中で楊纂軍に大勝して兵卒の3・4割を戦死させ、さらに陝中においては東晋軍を撃破して郭宝・ト靖を討ち取った。これにより楊纂は敗残兵を纏めて撤退したが、苻雅の軍勢が仇池まで侵攻すると遂に降伏し、武都に割拠していた楊統もまた降伏した。

373年9月、梁州刺史楊安を始めとした前秦軍が漢川へ侵攻すると、姚萇もまたこれに従軍した。前秦軍は11月までには東晋領であった梁州・益州・寧州・南秦州を支配下に入れ、姚萇は寧州刺史・領西蛮校尉に任じられて巴郡?江県の守備に当たった。

374年5月、蜀人の張育楊光らが兵2万を擁して前秦に反旗を翻すと、東晋の益州刺史竺瑶・威遠将軍桓石虔はこれに呼応し、兵3万を率いて?江へ侵攻した。姚萇はこれを迎え撃ったが、敗北を喫してしまい広漢郡伍城県まで撤退した。竺瑶らはさらに巴東まで軍を進め、張育もまた蜀王を自称して成都を包囲したが、最終的に楊安・ケ羌の奮戦により反乱は鎮圧された。

376年5月、武衛将軍苟萇・左将軍毛盛・中書令梁熙らと共に13万の兵を率いて前涼征伐を敢行し、西河(黄河の上流にある敦煌・酒泉・張掖・武威一帯を漠然と指す)へ侵攻した。秦州刺史苟池・河州刺史李弁・涼州刺史王統もまた三州の兵を率いて後続となった。前涼君主張天錫は龍驤将軍馬建に2万の兵を与え、前秦軍を迎え撃たせた。8月、姚萇は梁熙・王統・李弁と共に清石津(允吾県の青巌山ふもとにある)から黄河を渡って河会城へ侵攻し、守将である驍烈将軍梁済を降伏させた。苟萇もまた纒縮城を攻略し、馬建を楊非から清塞まで後退させると、張天錫は征東将軍常據へ3万の兵を与えて洪池へ派遣し、自らもまた5万の軍で金昌城へ出征した。姚萇は兵3千を率いて苟萇軍の先鋒となると、迎え撃ってきた馬建軍1万を撃ち破り、馬建を降伏させた。これにより、他の前涼軍も逃散した。さらに苟萇軍は洪池へ進出して迎え撃ってきた常據軍を破り、さらに清塞まで侵攻して司兵趙充哲・中衛将軍史景率いる勇軍5万を赤岸において打ち破った。張天錫は数千騎を率いて姑臧へ撤退するも、前秦軍が姑臧まで進軍すると遂に降伏した。


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