始皇帝
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、秦の君主について説明しています。他の用法については「始皇帝 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字が含まれています(詳細)。

始皇帝
秦朝
初代皇帝

王朝秦朝
在位期間荘襄王3年5月23日[1] - 始皇帝37年7月22日
前247年7月6日 - 前210年9月10日
都城咸陽
姓・諱趙政
生年昭襄王48年12月28日[注 1]
前259年2月18日
没年始皇帝37年7月22日[2]
前210年9月10日
荘襄王
趙姫[3]
陵墓驪山陵
『史記・秦始皇本紀』

始皇帝(しこうてい、紀元前259年2月18日 - 紀元前210年9月10日[4][5])は、中国の初代皇帝(在位:紀元前221年 - 紀元前210年)[6]古代中国の戦国時代の第31代君主(在位:紀元前247年 - 紀元前210年)。6代目の王(在位:紀元前247年 - 紀元前221年)。?(えい)または趙(ちょう)[7](ちょう)、は政(せい)または正(せい)[8]。現代中国語では秦始皇帝[9]または秦始皇[10]と表現する。

秦王に即位した後、勢力を拡大し他の諸国を次々と攻め滅ぼして、紀元前221年に中国史上初めて天下統一を果たした(秦の統一戦争)。統一後、王の称号から歴史上最初となる新たな称号「皇帝」に改め、その始めとして「始皇帝」と号した[6]

治政としては重臣の李斯らとともに主要経済活動や政治改革を実行した[6]。統一前の秦に引き続き法律の厳格な運用を秦国全土・全軍統治の根本とするとともに、従来の配下の一族等に領地を与えて領主が世襲して統治する封建制から、中央政権が任命・派遣する官僚が治める郡県制への地方統治の全国的な転換を行い、中央集権・官僚統治制度の確立を図ったほか、国家単位での貨幣計量単位の統一[11]、道路整備・交通規則の制定などを行った。万里の長城の整備・増設や、等身大の兵馬俑で知られる秦始皇帝陵の造営といった世界遺産として後世に残ることになった大事業も行った。法家を重用して法による統治を敷き、批判する儒家方士の弾圧や書物の規制を行った焚書坑儒でも知られる[12]

統一後に何度か各地を旅して長距離を廻ることもしており、紀元前210年に旅の途中で49歳(数え年だと50歳)で急死するまで、秦に君臨した。.mw-parser-output .toclimit-2 .toclevel-1 ul,.mw-parser-output .toclimit-3 .toclevel-2 ul,.mw-parser-output .toclimit-4 .toclevel-3 ul,.mw-parser-output .toclimit-5 .toclevel-4 ul,.mw-parser-output .toclimit-6 .toclevel-5 ul,.mw-parser-output .toclimit-7 .toclevel-6 ul{display:none}
称号「始皇帝」小篆体で書かれた始皇帝。
意味

の時代およびその後(紀元前700年 - 紀元前221年)の中国独立国では、「大王」の称号が用いられていた。紀元前221年に戦国時代に終止符を打った趙政は事実上中国全土を統治する立場となった。これを祝い、また自らの権勢を強化するため、政は自身のために新しい称号「秦始皇帝」(最初にして最上位の秦皇帝)を設けた。時に「始皇帝」と略される[13]

「始」は「最初(一番目)」の意味である[14]。「皇帝」の称号を受け継ぎ、代を重ねる毎に「二世皇帝」「三世皇帝」と名乗ることになる[15]

「皇帝」は、神話上の三皇五帝より皇と帝の二字を合わせて作られた[16]。ここには、始皇帝が天皇神農黄帝の尊厳や名声にあやかろうとした意思が働いている[17]

さらに、漢字「皇」には「光輝く」「素晴らしい」という意味があり、また頻繁に「天」を指す形容語句としても用いられていた[18]

元々「帝」は「天帝」「上帝」のように天を統べる神の呼称だったが、やがて地上の君主を指す言葉へ変化した。そこで神の呼称として「皇」が用いられるようになった。始皇帝はどの君主をも超えた存在として、この二文字を合わせた称号を用いた[13]

『史記』における表記

司馬遷が編纂した『史記』においては、「秦始皇帝」と「秦始皇」の両方の表記がみられる。「秦始皇帝」は「秦本紀」にて[1][19]や6章(「秦始皇本紀」)冒頭や14節[20]、「秦始皇」は「秦始皇本紀」章題にて遣っている[21][22]。趙政は「皇」と「帝」を合わせて「皇帝」の称号を用いたため、「秦始皇帝」の方が正式な称号であったと考えられる[23]
生涯
生誕と幼少期

秦人の発祥は甘粛省で秦亭と呼ばれる場所と伝えられ、現在の天水市清水県秦亭鎮にあたる。秦朝の「秦」はここに通じ、始皇帝は統一して、郡、県、郷、亭を置いた[24]
人質の子詳細は「奇貨居くべし」を参照

秦の公子であった父の異人(後の荘襄王[25]休戦協定人質としてへ送られていた[3]。ただ、父の異人は公子とはいえ、秦の太子[26] である祖父の安国君(異人の父。後の孝文王。曾祖父の昭襄王の次男)にとって20人以上の子の一人に過ぎず、またであった異人の生母の夏姫は祖父からの寵愛を失って久しく二人の後ろ盾となる人物も居なかった。

秦王を継ぐ可能性がほとんどない異人は、昭襄王が協定をしばしば破って軍事攻撃を仕掛けていたことで秦どころか趙でも立場を悪くし、いつ殺されてもおかしくない身であり、人質としての価値が低かった趙では冷遇されていた[27]

そこでの裕福な商人であった呂不韋が目をつけた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:219 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef