姉崎二子塚古墳
墳丘(左に前方部、右奥に後円部)
所属姉崎古墳群
所在地千葉県市原市姉崎1762
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度28分49.73秒 東経140度3分8.47秒 / 北緯35.4804806度 東経140.0523528度 / 35.4804806; 140.0523528
姉崎二子塚古墳(あねさきふたごづかこふん)は、千葉県市原市姉崎にある古墳。形状は前方後円墳。姉崎古墳群を構成する古墳の1つ。千葉県指定史跡に指定され(指定名称は「二子塚古墳」)、石枕は国の重要文化財に指定されている。 養老川下流左岸、標高5メートル前後の砂堤上に築造された大型前方後円墳である[1]。姉崎地域では大型前方後円墳数基を含む姉崎古墳群の築造が知られ、本古墳はそのうちの1基になる。周辺では宅地化が進み、東側の墳丘・周溝は良好に遺存するが、西側は宅地化により一部改変を受けている[1]。これまでに数次の発掘調査が実施されている。 墳形は前方後円形で、前方部を南西方向に向ける。墳丘は3段築成で、墳丘長は現存103メートル(推定復原110メートル[2])を測る[1]。墳丘外表では中段・下段で円筒埴輪列が認められており、墳頂部でもその存在が推測される[1]。また墳丘周囲には盾形周溝が巡らされる[1]。埋葬施設は、後円部・前方部に1基ずつの計2基が存在したと推定される[1]。1947年(昭和22年)の発掘当時に棺・槨等は認められなかったことから、いずれも木棺直葬と見られる[1]。後円部・前方部それぞれの主体部周辺からは、石枕(国の重要文化財)を始めとする多くの副葬品が発見されており、その多くは現在では國學院大學博物館に所蔵されている[1]。 築造時期は、古墳時代中期の5世紀前半-中頃と推定される[1]。周辺では群集墳が認められ、二子塚古墳はそれらの盟主的位置づけとされる[2]。また、二子塚古墳含む姉崎古墳群は『先代旧事本紀』「国造本紀」に見える上海上国造の首長墓群と想定されており、本古墳もその1つとされる[1]。なお姉崎古墳群では、この二子塚古墳のほかに古墳時代中期の前方後円墳は知られていない[3]。 古墳域は、1968年(昭和43年)に千葉県指定史跡に指定されている[4]。 墳丘の規模は次の通り(値は推定復原)[2]。 墳丘の裾周りは後世に削平を受けており、墳丘もその部分は急斜面状となっている[1]。千葉県史編纂の際には、1963年(昭和38年)・1974年(昭和49年)の航空写真でソイルマークが見えることをもって推定復原長は114メートルとされた[1]。しかしその後の周溝に関する調査などから、そのソイルマークは撮影当時の地下水位が反映されたものであって、推定復原長は110メートル程度と見直されている[2]。
概要
遺跡歴
1916年(大正5年)、『市原郡誌』に姉崎二子塚古墳に関する解説(二子塚古墳含め姉崎古墳群に関する最初の記録)[1]。
1945年(昭和20年)、松根採取の際に遺物が出土[4]。
1947年(昭和22年)、大場磐雄ら國學院大學考古学会による発掘調査[5]。
1968年(昭和43年)4月9日、千葉県指定史跡に指定[4]。
1974年(昭和49年)6月8日、出土品の石枕が国の重要文化財に指定[6]。
2005年度(平成17年度)、民家建設に伴う周溝確認調査[7]。
2006年度(平成18年度)、周溝範囲の確認調査[2]。
2014年度(平成26年度)、民家建設に伴う周溝確認調査[8]。
墳丘
墳丘長:110メートル - 現存長103メートル[1]。
後円部直径:55メートル
後円部墳頂
後円部から前方部を望む
出土品石枕(国の重要文化財)國學院大學博物館展示。