せのお かずお
妹尾 和夫
生年月日 (1951-11-17) 1951年11月17日(72歳)
出生地大阪市大正区
国籍 日本
身長177cm
血液型A
職業演出家、舞台作家
タレント
ジャンル舞台、放送タレント
活動期間1978年頃 - 現在
主な作品
ラジオ
『全力投球!!妹尾和夫です』
テレビドラマ
『必殺シリーズ』
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妹尾 和夫(せのお かずお、1951年〈昭和26年〉11月17日[1] - )は、日本の関西地方を拠点に活動をしているラジオパーソナリティ、タレント。劇団パロディフライ座長。同劇団を運営する芸能事務所、パロディフライ・プロダクション取締役。大阪市大正区鶴町2丁目出身。A型の一人っ子。身長177cm[2]。71?72s(2020年時点)。靴のサイズ26.5cm。阪神ファン。ラッキーカラーはピンク。自称「放蕩息子」。喫煙者(20歳から)。趣味はパチンコ中毒を経て、宝くじ(月4万)、ウクレレ。大阪市在住。 北海道出身の両親のもとに生まれる。1961年第2室戸台風の年、妹尾が小5の時に中古の木造の家を買い、リニューアルして大正区鶴町でパン屋を始める。お好み焼き店からの商売替だった。[3] 「一人っ子だから自立心を付けさせたいという両親の親心(本人談)」で天理中学校・天理高等学校に入学し、6年間の寮生活を送る[4][5]。高校では軟式テニス部に入るが、あまりにも練習が厳しいのと先輩から偉そうな理不尽な怒られ方をするので、夏の合宿で「やめたらあ」と言って半年程でやめたという。学生時代はラグビー活動をしていた(但し、同好会)。また、剣道も一級の腕前である。いずれも、場を盛り上げられるとのことで主将を務めていた。 1970年4月、日本大学文理学部哲学科に入学。6年行った。在学中には学生劇団「劇団あざみ」に所属。中学生時代に出会った教師の影響を受け、大学入学当初は教師を志望していた[5]。しかし大学在学中に木村光一、蜷川幸雄演出の芝居を見たことをきっかけに、本格的に役者を志す[5][6]。19歳で俳優座の試験に落ち、その後、KBS京都ラジオ『ハイヤングKYOTO』のオーディションも落ちる。その一方で過激派のデモに参加し、「安保粉砕、沖縄返せ!」とシュプレヒコールを上げ、前から3列目で機動隊(「国家権力の手先」と呼んでいた)と戦った。1年から4年までは夏休みに帰って来て、高校野球開催中の甲子園でかち割りを売っていた。東京では専ら神田のキャバレー「 ⇒ハリウッド」でアルバイトをしていた(主に厨房)。在学中、23歳で西野バレエ団ダンサーでステッカーズのメンバーの女性と結婚、新阪急ホテルで披露宴。新婚旅行は、ハワイとロサンゼルス(ディズニーランドなど)に行った。ロス2日目の夜には、ダウンタウンサンセット77通りあたりで一緒にストリップを楽しんだ。25歳で離婚し、北海道の親戚の牧場で6ヵ月過ごし、敗北感を感じつつ大阪に戻った。家業のパン屋(後に廃業)を手伝いながら、26歳で、MC企画に所属(16年)、役者を中心にタレント活動、結婚式の司会を開始。20代で、ラジオでレギュラーを持った。 28歳の時、友人とコントグループ「パロディフライ」を結成[7]。青山にあった東京事務所で、スネークマンショーを聴いていて「これくらいのこと俺たちにもできる」と思いコントを始めた。1983年、日本テレビ『お笑いスター誕生!!』に、メガネとペコと共に挑戦[8]。5週勝ち抜いて、銀賞を受賞した。 1985年、牧野エミ・升毅・立原啓裕による演劇ユニット「売名行為」を発足。1992年、劇団パロディフライを旗揚げ。自分ではCEOと称している。最高経営責任者と言う本来の意味より「ちょっとエロいおっさん」をもじった洒落で使うことが多い。 1995年の阪神・淡路大震災では、毎日放送から依頼を受け、地震発生の翌日からリポーターとして被災地を取材。毎日放送のテレビ『宵待5』でリポートを入れていた[9]。
来歴・人物