妙覚寺
所在地京都府京都市上京区上御霊前通小川東入下清蔵口町135
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度2分12.4秒 東経135度45分11.9秒 / 北緯35.036778度 東経135.753306度 / 35.036778; 135.753306
妙覚寺(みょうかくじ)は、京都市上京区にある日蓮宗の由緒寺院(本山)の寺院。山号は具足山。本尊は十界曼荼羅。塔頭は善明院、實成院、玉泉院の3院ある。 日実
歴史
妙覚寺は寛正7年(1466年)に近隣の本覚寺を合併して寺域を広げ、不受不施義の中心的寺院として発展した。
文明15年(1483年)、室町幕府将軍足利義尚の命により、二条衣棚(現・京都市中京区)に移転した[1]。
天文5年(1536年)の天文法華の乱で伽藍が全焼し、堺に避難した。その後、天文11年(1542年)に後奈良天皇が法華宗帰洛の綸旨を下すと、妙覚寺は天文17年(1548年)に二条衣棚の旧地に戻って再建された。
この当時の妙覚寺は美濃国の戦国大名・斎藤道三との関係が深く、父とされる松波庄五郎は妙覚寺で得度しており(後に還俗)、また道三の四男は当寺十九世となる日饒である。日饒は織田信長にとっては義弟にあたり、信長は二十数回に及ぶ京への滞在において妙覚寺を宿所としたケースは18回に及び、本能寺に滞在したのは3回に過ぎない。
天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変の際には、織田信長の嫡男である織田信忠が妙覚寺を宿舎としていた。明智光秀の謀反を知った信忠は寺を出て明智勢を討つべく二条新御所へ向かい、奮戦の末に自害して果てた。明智軍によって信長と信忠が討たれるに伴い、本能寺と二条新御所の一部が放火され焼失したことが『兼見卿記』『日々記』などに書かれているが[2]、妙覚寺がこの事件に遭難して焼失したということを伝える史料は現在の所一つも確認できない[3]。このため、妙覚寺は本能寺の変では焼失どころか無傷であった可能性も指摘されている[3]。
天正11年(1583年)に羽柴秀吉の命により、現在の地に移転している。文禄4年(1595年)、妙覚寺21世の日奥は、不受不施の立場から秀吉が主催した方広寺大仏(京の大仏)の千僧供養への出仕を拒み、秀吉に「法華宗諌状」を提出した後、妙覚寺を去っている。
天明8年(1788年)に天明の大火により全焼するが、その後再建されている。その際、後に本格的な本堂を建てる予定で仮本堂を建てて本尊を祀っていたが、結局本堂は建てられず、明治時代になって仮本堂は解体された。本尊は客殿に移されて客殿が本堂とされた。
妙顕寺、妙覚寺、立本寺の三寺はいずれも山号を具足山と称し、「龍華の三具足(りゅうげのみつぐそく)」と呼ばれている[4]。近年は近くにある妙顕寺や本法寺とともに春秋の観光シーズンを中心に合同で特別公開を行っている。
現住は86世 宮ア日嚴貫首(兵庫県豊岡市本高寺より晋山)。奠師法縁(奠統会)縁頭寺。
境内祖師堂