妙心寺
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この項目では、京都市右京区にある寺院について説明しています。その他の用法については「妙心寺 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

妙心寺
手前左側から三門・仏殿・法堂・大方丈
所在地京都府京都市右京区花園妙心寺町64
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度1分23.39秒 東経135度43分12.67秒 / 北緯35.0231639度 東経135.7201861度 / 35.0231639; 135.7201861座標: 北緯35度1分23.39秒 東経135度43分12.67秒 / 北緯35.0231639度 東経135.7201861度 / 35.0231639; 135.7201861
山号正法山
宗派臨済宗妙心寺派
寺格大本山
本尊釈迦如来
創建年暦応5年/康永元年(1342年
開山関山慧玄
開基花園法皇
正式名正法山 妙心禅寺
文化財梵鐘、大燈国師墨蹟関山字号(嘉暦己巳仲春)ほか(国宝
仏殿、法堂、三門ほか(重要文化財
方丈庭園(国の史跡・名勝)
法人番号5130005001190
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妙心寺(みょうしんじ)は、京都市右京区花園妙心寺町にある臨済宗妙心寺派大本山寺院山号は正法山。本尊釈迦如来。開基(創立者)は花園天皇。開山(初代住職)は関山慧玄(無相大師)。寺紋は花園紋(妙心寺八つ藤)。

日本にある臨済宗寺院約5,650か寺のうち、約3,350か寺を妙心寺派で占める。近世に再建された三門、仏殿、法堂(はっとう)などの中心伽藍の周囲には多くの塔頭が建ち並び、一大寺院群を形成している。平安京範囲内で北西の12町を占め自然も多いため、京都市民からは西の御所と呼ばれ親しまれている。
歴史法堂、座禅が行われている

京都の禅寺は、五山十刹(ござんじっさつ)に代表される、室町幕府の庇護と統制下にあった一派と、それとは一線を画す在野の寺院とがあった。前者を「禅林」または「叢林(そうりん)」、後者を「林下(りんか)」といった。妙心寺は、大徳寺(龍寶山大德禪寺)とともに、修行を重んじる厳しい禅風を特色とする「林下」の代表的寺院である。

平安京の北西部を占める風光明媚な妙心寺の地には、花園上皇花園御所離宮萩原殿)があった。花園上皇は、建武2年(1335年落飾して法皇となり、花園御所(離宮萩原殿)を禅寺に改めることを発願した。法皇の禅の上での師は大徳寺開山の宗峰妙超(大燈国師)であった。宗峰は建武4年(1337年)12月没するが、臨終間近の宗峰に花園法皇が「師の亡き後、自分は誰に法を問えばよいか」と尋ねたところ、宗峰は高弟の関山慧玄を推挙した。その頃、美濃国岐阜県)の伊深(美濃加茂市伊深町)で修行に明け暮れていた関山は、都に戻ることを渋っていたが、師僧・宗峰の遺命と花園法皇の院宣があっては辞去するわけにはいかず、暦応5年/康永元年(1342年)、妙心寺の開山となった。なお、「正法山妙心寺」の山号寺号は宗峰が命名したもので、釈尊が嗣法の弟子・摩訶迦葉(まかかしょう)に向かって述べた「正法眼蔵涅槃妙心」(「最高の悟り」というほどの意味)という句から取ったものである。[1]

関山慧玄の禅風は厳格で、その生活は質素をきわめたという。関山には他の高僧のような「語録」はなく、生前に描かれた肖像もなく、遺筆も弟子の授翁宗弼に書き与えた印可状(師匠の法を受け継いだ証明書)の他、ほとんど残されていない[2]

妙心寺では開山関山慧玄以降、二祖授翁宗弼、三祖無因宗因、四祖日峰宗舜、五祖義天玄承、六祖雪江宗深までを「六祖」と呼んで尊崇している。なお、この初祖から六祖は法系を指すものであって、妙心寺の住持として何世目であるかを指すものではない。住持の世代としては日峰宗舜、義天玄承、雪江宗深がそれぞれ七世、八世、九世にあたる[3]

妙心寺6世住持の拙堂宗朴(せつどうそうぼく)は、足利氏に反旗をひるがえした大内義弘と関係が深かったため、将軍足利義満の怒りを買った。応永6年(1399年)、義満は妙心寺の寺領を没収して子である青蓮院の義円(後の足利義教)に与え、拙堂宗朴は大内義弘に連座して青蓮院に幽閉の身となった。さらに義満は、没収した他の寺領と妙心寺自体の建物と境内地を弟である南禅寺塔頭・徳雲庵塔主の廷用宗器に与えた。廷用は妙心寺の寺号を「龍雲庵」に改め、徳雲庵の末寺とした。こうして妙心寺は一時中絶することとなった。

妙心寺が復活するのは永享4年(1432年)のことである。同年、廷用は微笑塔(開山関山慧玄の塔所)の敷地をその頃南禅寺にいた根外宗利に与えた。関山慧玄の流れを汲んでいた根外は、尾張国犬山青龍山瑞泉寺から日峰宗舜を迎えて妙心寺を再興させた。このため日峰は妙心寺中興の祖とされている[4]

妙心寺は応仁の乱1467年 - 1477年)で伽藍を焼失したが六祖雪江宗深の尽力により復興する。雪江宗深は住持の期間を3年と定め、その4人の法嗣、景川宗隆悟渓宗頓特芳禅傑および東陽英朝は、師亡き後交代で妙心寺の住持を務めてそれぞれ妙心寺四派の龍泉派、東海派、霊雲派及び聖澤派の祖となった。各々の派は現在まで続いており、妙心寺派の寺院は全て四派のいずれかに属している。永正6年(1509年)、後柏原天皇から紫衣勅許の綸旨を得る。この勅許状には大徳寺と位が等しい旨が記されており、これをもって妙心寺は大徳寺から独立したとみなされている[5]。12月には悟渓宗頓に帰依していた利貞尼が仁和寺領の土地を購入して妙心寺に寄進し、境内が拡張された。利貞尼は関白一条兼良女で美濃国加納城斎藤妙純の室である。永禄年間(1558年 - 1570年希菴玄密により、住持の期間が3年から1年に改められる。天正6年(1578年)には南化玄興快川紹喜虎哉宗乙ら三十六師連名で妙心寺壁書(規則)を定めた。また妙心寺住職の妹の慈徳院織田信長の嫡男・織田信忠の乳母となり、その後に信長の側室になり、六女の三の丸殿豊臣秀吉の側室)を儲けた。本能寺の変で信長が討たれると、信長の妹のお市の方が信長の百箇日法要を妙心寺で執り行った。

その後の妙心寺は戦国武将などの有力者の援護を得て、近世には大いに栄えた[6]関ヶ原の戦いで敗れた石田三成の嫡男の石田重家は妙心寺に入って出家し、命を助けられた。江戸時代隠元隆gが訪日すると、龍渓性潜らが臨済宗の正統を継ぐ師の到来として妙心寺へ迎えようとしたが、当時の重鎮愚堂東寔によってその案は峻拒された。1871年明治4年)に管長職を設け、名古屋市徳源寺の鰲巓道契が妙心寺派初代管長となっている。


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