妙信講
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大言壮語的な記述になっています。(2019年5月)


中立的な観点に基づく疑問が提出されています。(2017年8月)


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冨士大石寺顕正会顕正会本部(埼玉県さいたま市大宮区
本部(埼玉県さいたま市大宮区
前身妙信講(みょうしんこう)
設立1957年 (昭和32年)
設立者浅井甚兵衞
種類宗教法人
法人番号5011405000447
本部埼玉県さいたま市大宮区寿能町1-72-1(事実上)
東京都板橋区常盤台1-14-1(登記上)
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度55分13.1秒 東経139度38分4.2秒 / 北緯35.920306度 東経139.634500度 / 35.920306; 139.634500座標: 北緯35度55分13.1秒 東経139度38分4.2秒 / 北緯35.920306度 東経139.634500度 / 35.920306; 139.634500
教祖塚越治喜
会長名代・理事長・
法人代表役員浅井城衞
副理事長行成公一郎
ウェブサイト公式ウェブサイト
かつての呼び名日蓮正宗妙信講
日蓮正宗顕正会
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冨士大石寺顕正会(ふじたいせきじけんしょうかい)は、日本仏教系、法華系、日蓮系、日興門流系、富士門流系、大石寺系の宗教団体である。

埼玉県さいたま市大宮区寿能町に本部を置き、日本各地に約60箇所の会館を有する。

公称会員数は約260万人[official 1]を擁する単立宗教法人で、宗教法人法に基づく届出名は宗教法人「顕正会」である。

もともとは日蓮正宗所属の信徒団体として1957年(昭和32年)に発足した「妙信講」が前身であり、教団の機関紙としては『顕正新聞』(月三回発行)がある。

鎌倉時代の僧である日蓮を本仏として仰ぎ、法華経こそが釈迦の真実の教えとし、末法の世では日蓮大聖人の仏法(三大秘法)のみが個人の幸福と真の国家安泰をもたらす法であるとしている。

1974年(昭和49年)に日蓮正宗から解散処分を受けている。

毎月末に同会本部会館にて総幹部会を開催し、月の活動内容や体験談の発表を行い、動画サイト上に配信をしている。2023年10月16日に浅井昭衞が死去したことにより、同会理事長であった浅井城衞が三代目会長となる[1]

他の仏教系宗教や他の日蓮系宗教は邪教であると認識している。
歴史

大東亜戦争太平洋戦争第二次世界大戦)中の1942年昭和17年)4月、日蓮正宗妙光寺東京府東京市品川区:現・東京都品川区)の総代だった浅井甚兵衞が初代講頭となり、妙光寺所属の法華講の一講中として東京妙信講(とうきょうみょうしんこう)が結成(認証)[2][3]。当時は戦時下のため折伏弘通は困難であったが、甚兵衞は事業経営と並行して講員を励ましながら弘通を進めたという[official 2]

浅井親子らは妙光寺から豊島教会の妙国寺(板橋区)へと所属変えを行い、その後に法道会(現:法道院豊島区南池袋)へと所属を変えたが、住職の申入れを受けて法道会法華講と合併するため発展的に解散した。その後は法道会から離脱し妙信講を再建するが[official 3]創価学会が中心となって寄進・建立した正本堂(平成10年に解体撤去)の教義上の位置づけをめぐり日蓮正宗・創価学会と激しく対立。日蓮正宗から講中解散処分を受ける。詳細は「除名#日蓮正宗の除名」および「牙城会#創価学会反対派との紛争」を参照
年譜

1957年(昭和32年)8月3日 妙信講発足
[official 4]

1958年(昭和33年)1月15日 妙信講認可。大石寺第65世法主堀米日淳の配慮により宗門内極めて異例の認証式が行われ[4]妙縁寺墨田区吾妻橋)所属となった。講頭に甚兵衞、青年部長に甚兵衞の長男である昭衞、松本日仁と早瀬道応(後の日慈、大石寺第68世法主早瀬日如の実父)が指導教師に就任。本部は当時、東京都文京区にあった甚兵衞の自宅に置かれた[official 3]

1963年(昭和38年)10月31日 機関紙「顕正新聞」が日蓮正宗と創価学会からの圧力を受けて廃刊。これに代わる機関誌として月刊『富士』が創刊され、その編集長に昭衞が就任。

1967年(昭和42年) 10月 正本堂発願式。席上、創価学会会長池田大作は「夫れ正本堂は末法事の戒壇にして、宗門究竟の誓願之に過ぐるはなく、将又仏教三千余年、史上空前の偉業なり」と宣言[official 5]

1968年(昭和43年)1月 大石寺第66世法主細井日達が、「此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります」と発言[soka 1]

1970年(昭和45年)

3月25日 日蓮正宗の宗務役僧、および創価学会首脳に対し、「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」を送付[official 6]

4月3日 浅井父子が大石寺大奥の対面所で日達と対面。日達は、正本堂が日蓮大聖人の御遺命の戒壇ではないこと、御遺命の戒壇とは国立戒壇であることを認め、正本堂の誤りを訂正することを約束[official 7]

5月29日 浅井父子が大石寺対面所で学会理事長和泉覚および主任副会長の秋谷栄之助森田一哉と正本堂の意義につき論判。数日後、森田らは細井日達に対し、今後学会は「正本堂は御遺命の戒壇」「広布はすでに達成」とは言わない旨を誓約[official 8]

9月11日 妙信講と創価学会との間で、「一、正本堂は三大秘法抄・一期弘法抄にいうところの最終の戒壇であるとは、現時において断定はしない」等と記載された「御報告」と題する書面を作成[official 9][5]


1971年(昭和46年)11月15日 池田に対し、「正本堂に就き池田会長に糺し訴う」と題する書面を送付[official 10]

1972年(昭和47年)

4月28日 日達が、「日達、この時に当って正本堂の意義につき宗の内外にこれを闡明し、もって後代の誠証となす。正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」との訓諭を発布[5]。妙信講は同日、池田会長に対し、正本堂の意義につき公場対決を申し入れる書状を送付[official 11]


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