妖精の女王_(パーセル)
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妖精の女王
ヘンリー・パーセル作曲のセミオペラ
初版の表紙
劇作家不明
題材ウィリアム・シェイクスピア作『夏の夜の夢
初演1692年5月2日 (1692-05-02)
ロンドンにあるドーセット・ガーデン、クイーンズ・シアター

『妖精の女王』(ようせいのじょおう、英語: The Fairy-Queen、1692年、パーセルカタログナンバーZ.629[1])とはヘンリー・パーセルによるセミオペラあるいは仮面劇(マスク)であり、「王政復古期のスペクタクル」である[2][3]ウィリアム・シェイクスピアによる『夏の夜の夢』の作者不明の改作であるリブレットに音楽をつけた作品である。『妖精の女王』はパーセルの死の3年前の35歳の時に作曲され、1692年に初演が行われた。パーセルの死後、楽譜は消失し、20世紀初期になり再発見された。

パーセルはシェイクスピアのテクストに音楽をつけず、代わりに短い仮面劇(マスク)に合わせた楽曲を作曲し、第1幕を除く全ての幕で使用した。作品の内容には17世紀の劇の慣習に合うように時代に沿った変更がされている。歌の部分ではない主な台詞は全てシェイクスピアのテクストが使われている。仮面劇は逐語的というよりも、隠喩的に公演内容に関わっているが、多くの批評家はとくに関係はないと述べている。結婚の神ハイメンの仮面劇で終わるオペラはウィリアム3世メアリ2世の結婚15周年記念祭のために作曲されたとも考えられている[4]

バロック音楽への関心の高まりとカウンターテナーの振興により、『妖精の女王』は再び上演レパートリーに入った。『妖精の女王』は20世紀後半に完全版での録音が複数回行われている。

2009年7月、パーセルの生誕350回記念として『妖精の女王』がグラインドボーン音楽祭により上演された。この際に使用された譜面はブルース・ウッドとアンドルー・ピノックにより、パーセル協会のために用意された新版であった。
役柄

モプサ役はもともとソプラノが演じていたが、後にパーセルが改訂した版では「女性の衣服を着たミスター・ペイト」が演じると述べられており、おそらくはグロテスクな効果を生み出し、コリュドンとモプサの対話にある「ダメダメダメダメダメ、キスは絶対ダメ」(No, no, no, no, no; no kissing at all) という繰り返しを強調するための変更であった[5]。さらに、「カウンターテナー」という言葉がこの文脈で何を意味しているのかについては完全に明確ではない。パーセル(自身がカウンターテナーであった)が(高音部では声質が軽いものの)とくに高い声域とテッシトゥーラ(中世ポリフォニーのcontratenors altiの末裔で時としてオートコントルとして知られる)を持つテノールを使ったのか、ファルセットで歌う歌手を使ったのかについて、記録は曖昧である。キャリアの全期間にわたり、パーセルは両方を使っていたようである[6]

※歌のないキャラクターについては『夏の夜の夢』を参照、ただし本作にはヒポリタが登場しない。

役柄声域
酔っ払いの詩人バス
妖精1ソプラノ
妖精2ソプラノ
夜(ナイト)ソプラノ
ミステリーソプラノ
シークレシーカウンターテナー
眠り(スリープ)バス
コリュドンバス
モプサソプラノカウンターテナー
ニンフソプラノ
オーベロンの3人の従者ソプラノ1人、カウンターテナー2人
フィーバステノール
ソプラノ
カウンターテナー
テノール
バス
ジューノーソプラノ
中国人の男性カウンターテナー
中国人の女性、ダフネソプラノ
ハイメンバス
コーラス:妖精と従者[7]

あらすじドーセット・ガーデン・シアターの舞台の様子。エルカナ・セトルのThe Empress of Morocco (1673) リブレットにある絵に拠る。

全体のあらすじについては『夏の夜の夢#あらすじ』を参照。音楽を伴う場面のみ解説する。
第1幕

最初に音楽が演奏される場面は、小さなインドの男の子について口論し、ティターニアオーベロンのもとを去った後に出てくる。ティターニアの妖精のうち2人が田舎の楽しさについ歌う ("Come, come, come, come, let us leave the town")。酔っ払ってつっかえつっかえ話す詩人が入場して "Fill up the bowl" を歌う。多くがこの吃音トマス・ダーフィーのくせに基づいていると考えていたが、エルカナ・セトルをからかっていた可能性もある。セトルも吃音を抱えていて、1910年に出た伝記の誤りのせいでこの作品の台本作者であると長きにわたって考えられていた[5]

妖精たちは酔っ払った詩人をあざ笑って追い払う。当意即妙の素早いやりとりと気の毒な被害者のおおむね「現実的」な描写ゆえ、酔っ払った詩人のマスクはパーセルがロンドンの舞台のために作った作品の中ではイタリア人が知っていたような形の本格的なオペラに最も近い場面である[8]
第2幕

オーベロンがパックにディミートリアスの目に恋の花の汁を塗るよう命じた後に音楽を伴う場面がある。ティターニアと妖精たちが楽しく遊び ("Come all ye songsters of the sky")、 登場人物の夜 ("See, even Night") とミステリ ("Mystery's song")、シークレシー ("One charming night")、眠り ("Hush, no more, be silent all") が皆を眠らせ、心地よい夢に委ねる。
第3幕

ティターニアはボトム(既にロバの頭をかぶっている)と恋に落ち、オーベロンは大いに満足する。ニンフが恋の悦びと苦痛について歌う ("If love's a sweet passion")。ダンスの後、コリュドンとモプサという干し草作りをしている2人の間のばかげているが愛情のこもったからかいをティターニアとボトムが楽しむ。
第4幕

ティターニアの魔法がとけた後、オーベロンの誕生日を祝う短いディヴェルティスマンが始まるが ("Now the Night"と"Let the Fifes and the Clarions")、大部分は神フィーバスと ("When the cruel winter") 四季によるマスクが占めている (春が"Thus, the Ever Grateful Spring"、夏が"Here's the Summer"、秋が"See my Many Coloured Fields"、冬が"Now Winter Comes Slowly")。
第5幕

シーシアスが恋人たちの森での冒険について話を聴いた後、女神ジュノー祝婚歌 Thrice Happy Lovers を歌い、それに続いて女性が有名な The Plaint (O Let Me Weep) を歌う。中国人の男性と女性が入場してこの世の喜びに関する歌を数曲歌う (Thus, the Gloomy World, Thus Happy and Free, Yes, Xansi)。別に2人の中国人女性がハイメンを呼び、ハイメンは結婚の喜びについての歌を歌い、こうして『夏の夜の夢』の結婚のテーマと ウィリアムとメアリの結婚記念日の祝いがひとつに結び合わされる[4]
上演史『妖精の女王』が初演されたドーセット・ガーデンのクイーンズ・シアター
初演

『妖精女王』は1692年の5月2日にロンドンにあるドーセット・ガーデンのクイーンズ・シアターにて、ユナイテッド劇団により初演された。リブレットは少なくとも2人の台本作家によって作られた。そのうちの1人は、パーセルとともに定期的に仕事をした、劇場のマネージャーでもあったトーマス・ベタトンだとされている。この主張はベタトンのト書きの分析に基づいている[4]

最初の公演を説明した書簡には、8?9歳の子役がティターニアとオーベロンの役を演じたことが示されている[9]

メアリ2世の誕生日と結婚15周年記念日が1692年4月30日であり、本作はこれを祝うために作曲・上演されたと考えられている[10]
上演の復活

パーセルの早すぎる死の後、『ダイオクレシアン』が18世紀中盤まで人気を保っていた[2]


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