妓生
[Wikipedia|▼Menu]

妓生
劉運弘の描いた妓生
各種表記
ハングル:??
漢字:妓生
発音:キセン
日本語読み:きしょう
ローマ字:Gisaeng, Kisaeng
テンプレートを表示
妓生の公演写真日本統治時代の妓生

妓生(きしょう/キーセン、??)とは、元来は李氏朝鮮時代以前の朝鮮半島に於いて、諸外国からの使者や高官の歓待や宮中内の宴会などで楽技を披露したり、性的奉仕[1][2][3]などをするために準備された奴婢身分の女性(婢)のことを意味する。

甲午改革で法的には廃止されたが、後に民間の私娼宿(「キーセンハウス」など)の呼称として残存し、現在に至る。
概要妓生(1910)

高麗から李氏朝鮮末期まで約1000年間、常に2万 - 3万名の妓生がおり、李朝時代には官婢として各ごとに10 - 20名、に30 - 40名、に70 - 80名ほどが常時置かれていた[4]
起源

その起源には諸説あり定かでない。
巫女の遊女化説と百済の揚水尺説晋州の妓生の剣舞(申潤福『雙劍對舞』)

妓生は歌や踊りで遊興を盛り上げるのを生業とし、売春する二牌、三牌は妓生とは呼ばれていなかった[5]。発生には諸説あり、新羅の巫女の遊女化から始まったとか高麗時代の百済の揚水尺に歌舞を習わせたものとも言われている[5]
中国の妓女と妓生詳細は「妓女」を参照

朝鮮の妓生制度は、中国の妓女制度が伝わったものといわれる[1]妓女制度はもとは宮中の医療や歌舞を担当する女卑として妓生 (官妓) を雇用する制度であったが、のちに官吏や辺境の軍人の性的奉仕を兼ねるようになった[1][2]
新羅の源花・天官女

宗教民俗学者の李能和『朝鮮解語花史[6]』(1927年) によると、新羅真興王37年に「源花を奉る」とあり、源花は花郎 (ファラン) と対になっており、源花は女性、花郎は美少年がつとめ、これが妓生のはじまりであるとする[6][7]。また、新羅時代の天官女が妓生制に相当するといわれている。
百済遺民説

李能和も『高麗史』にもとづき、百済遺民の女性を飾り立て高麗女楽を習わせたことも起源の一つとしている[6][8]。また、李氏朝鮮後期の学者丁茶山 (1762-1836) の説では妓生は百済遺民柳器匠末裔の楊水尺 (賤民[9]) らが流浪しているのを高麗人李義民が男を奴婢に女は妓籍に登録管理したことに由来するともいう[10]
日本の傀儡子との関連

柳田國男は妓生と日本の傀儡子は同祖と考えたが、のちに撤回した[11]。その後、滝川政次郎なども同系説を提唱し、川村湊性器信仰が妓生と傀儡子に共通することなどから、渡来説は有力とみている[12]
高麗の妓生制

高麗時代 (918年-1392年) に、中国の妓女制度が伝わり朝鮮の妓生制度になった[1][13]

官妓 (女官)・官婢の中で容姿の優れた者を選別し、歌舞を習わせ女楽 (高麗女楽) とした。高麗は政府直属の掌学院[10]を設立し、官妓らはそこに登録され、歌舞や医療などの技芸を担当した。
辺境軍人の慰安婦として

掌学院に登録された妓生は次第に官僚や辺境の軍人への性的奉仕も兼ねるようになった[1][2]

李朝時代にも妓生は国境守備将兵の慰安婦としても活用され、国境の六ヶ所の「鎮」や、女真族の出没する白頭山付近の四ヶ所の邑に派遣され、将兵の裁縫や酒食の相手や夜伽をし、士気を鼓舞した[14]
李氏朝鮮の妓生1904年の妓生の少女たち

李氏朝鮮時代の妓生は女楽のほかに宮中での医療を行い、衣服の縫製もしたので、薬房妓生、尚房妓生という名称も生まれている[5]。妓生は、官に属する官妓 (妓女・ソウルに仕える宮妓と地方の郷妓に分かれる) と、私有物である妓生が存在したが、大半は官妓だったようである。妓生になる女性のほとんどは奴婢であるが、実家の没落・一家離散または孤児となったり、身を持ち崩すなどした両班の娘などが妓生になる場合も多かった。李氏朝鮮の妓生は高麗女楽をルーツにしており、宮中での宴会に用いる為の官妓を置き、それを管理するための役所妓生庁が存在した。一般的に、妓生は両班を相手とするため、歌舞音曲・学問・詩歌・鍼灸などに通じている必要があった。また、華麗な衣服や豪華な装飾品の着用が許され、他国の高級娼婦と同様に服飾の流行を先導する役目もした。
妓生制存廃論争

1392年李氏朝鮮が成立し、1410年には妓生廃止論がおこるが、反対論のなかには妓生制度を廃止すると官吏が一般家庭の女子を犯すことになるとの危惧が出された[1]山下英愛はこの妓生制度存廃論争をみても、「その性的役割がうかがえる」とのべている[1]。4代国王世宗のときにも妓生廃止論がおこるが、臣下が妓生を廃止すると奉使 (官吏) が人妻を奪取し犯罪に走ると反論し、世宗はこれを認め「奉使は妓をもって楽となす」として妓生制度を公認した[15]
妓生庁平壌にあった妓生学校

李氏朝鮮政府は妓生庁を設置し、またソウルと平壌に妓生学校を設立し、15歳?20歳の女子に妓生の育成を行った[10]
燕山君と妓生

李能和によれば、李王朝の歴代王君のなかでは9代国王成宗とその長子である10代国王燕山君が妓娼をこよなく愛した[16]

とりわけ燕山君暴君、もしくは暗君で知られ、後宮に妓娼をたくさん引き入れ、王妃が邪魔な場合は処刑した[17]。化粧をしていなかったり、衣服が汚れていた場合は妓生に杖叩きの罰を与え、妊娠した妓生は宮中から追放し、また妓生の夫を調べ上げて皆斬殺した[17]

燕山君は名寺刹円覚寺を潰し、妓生院を建て、全国から女子を集め大量の妓生を育成した。燕山君の淫蕩の相手となった女性は万にいたったともいわれ、晩年には慶会楼付近に万歳山を作り、山上に月宮をつくり、妓生3000余人が囲われた[17]。燕山君の時代は妓生の全盛 (絶頂) 期ともいわれる一方でこれらは燕山君の淫蕩な性格に起因するといわれており、妓生の風紀も乱れた。
運平・青女

燕山君は、妓生を「泰平を運んでくる」という意味で「運平 (うんぴょん)」と改称させ、全国から美女であれば人妻であれ妾であれ強奪し、「運上」させるよう命じた[17]。全国から未婚の処女を「青女」と呼んで選上させたり、各郡の8歳から12歳の美少女を集め、淫したとも記録され、『李朝実録』では「王色を漁す区別なし」と記している[17]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:71 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef