如来院
表門(尼崎市指定文化財)
所在地兵庫県尼崎市寺町11
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度43分05.6秒 東経135度24分41.2秒 / 北緯34.718222度 東経135.411444度 / 34.718222; 135.411444
珠光山?照寺如来院(にょらいいん)は、兵庫県尼崎市寺町にある浄土宗の寺院。法然上人二十五霊跡第四番札所[1]。
御詠歌「身と口とこゝろの外の弥陀なれば われをはなれてとなへこそすれ[2]」
歴史本堂・扁額 題字は知恩院第53代住持麗誉順真による[3]。
天平年間(729年-749年)、聖武天皇の勅願により行基が建立した49院中の一院となる。開基当初は摂津国神崎において、天皇の厄除けを祈願するため釈迦の本尊を祀り、?照寺もしくは神崎釈迦堂と称された[1]。
釈迦堂のあった神崎は昔から、京都と西国地方を結ぶ船舶の拠点として繁栄し、遊女も多かった。建永2年(1207年)3月、法然が讃岐遠流の途中同地に立ち寄り、5人の遊女を帰依させる。その後自らを懺悔し念仏を授かった5人は神崎川へ入水。住民は遺骸を川岸に葬り遊女塚とし、法然は釈迦堂にて念仏回向したとの伝承がある[1]。当寺には現在も法然の遺物や遊女5人の遺髪[4]が残されている。
同年12月、法然は勅免により京都へ戻る途中、遊女たちを弔うため再び神崎を訪れる。住民は徳を得るため引き留めようとしたが、勅命により自らの意のままにならない彼は代わりに弟子の湛空を釈迦堂に留めさせ、法然上人宗祖の念仏道場として信仰盛んとなった[1]。
だが永正14年(1517年)、神崎の洪水で釈迦堂が流されたため、新たに善光寺式如来を模した阿弥陀如来を本尊とし、それ以後如来院と称している[5][1]。
永正17年(1520年)、前年に大物城を築いた城主・細川高国が城内(大物)に当寺を移転させた。永禄12年(1569年)の織田信長による尼崎焼打ちの際も、当寺は長遠寺と共に被災を免れたと言われる。さらに元和4年(1618年)、戸田氏鉄の尼崎城築城に伴い、元和年間(1615年-1624年)に寺町(現在地)へ移転した[5][1]。
年表
天平年間(729年 - 749年) - 摂津国神崎にて神崎釈迦堂創建
永正14年(1517年)- 神崎の洪水により本堂等が被災、以降阿弥陀如来を本尊とし、如来院と称される
永正17年(1520年) - 大物城内(大物)へ移転
元和年間(1615年 - 1624年) - 寺町(現在地)へ移転
昭和52年(1977年)1月 - 本堂および地蔵堂修復工事が完了[6]
平成5年(1993年)5月31日 - 鐘楼修復工事が完了[7]