好太王
広開土王
高句麗国王
在位391年 - 413年
出生374年
死去413年
王太子長寿王(巨連)
配偶者徐g荷
秀芝?
桃榮
躍延
雪芝
子女長寿王
父親故国壌王
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好太王
各種表記
ハングル:?????
漢字:廣開土大王
発音:クァンゲト デワン
日本語読み:こうかいどだいおう
文化観光部2000年式:
英語:Gwanggaeto-daewang
Gwanggaeto the Great
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好太王(こうたいおう、374年 - 412年)は、高句麗の第19代の王(在位:391年 - 412年)。 姓は高、諱は談徳(だんとく、タムドク)。先代の故国壌王の息子で、386年に太子に立てられており[1]、先王の死とともに辛卯年(391年)に王位に就いた。鮮卑の前燕の攻撃を受けて衰退していた高句麗を中興し、領土を大幅に拡張した。好太王の名は、好太王碑文によれば正式な諡は國岡上廣開土境平安好太王といい、韓国では広開土王または広開土大王とも呼ばれる。在位中に永楽という年号を使用したので永楽大王とも呼ばれる。 王の即位年について、好太王碑文では前述の通り辛卯年(391年)とするが、『三国史記』高句麗本紀や同書・年表、また『三国遺事[2]』王暦においては壬辰年(392年)の即位としており、1年の差異が見られる。これにより、治績年や死去年についても1年の差異がある。本稿においては、干支表記年は好太王碑文によるものとし、干支を伴わない表記年は『三国史記』によるものとする。 『三国史記』高句麗本紀・広開土王紀・百済本紀・義慈王紀によると、中国黄帝の孫の高陽氏、中国黄帝の曾孫の高辛氏の子孫であると称していた[3][4][5][6][7]。 諡が示すとおりに高句麗は領土を拡大させたが、礼成江を境に百済に対しては即位初めから攻勢を取った。 新羅に対しては、壬辰年(392年)1月に使者を送って良好な関係を維持し、高句麗の勢力を恐れた新羅からは王族の金実聖(当代の奈勿尼師今の甥であり、後の実聖尼師今)が人質として送られてきたのを受け容れた。同年、石硯城(黄海北道開豊郡北面青石洞)を含めた10城を奪取し、関彌城[8]を陥落させた。甲午年(394年)には水谷城(黄海北道新渓郡)を築き、乙未年(395年)には現在の礼成江まで反撃する百済軍を撃破して、百済との接境に7城を築いて防備を強化した。丙申年(396年)には漢江を越えて侵攻して百済の58城700村を陥落させ、百済王に多数の生口や織物を献上させ、永く隷属することを誓わせた。 しかし丁酉年(397年)、百済の阿?王は王子腆支を人質として倭に送り通好する。(399年)庚子年(400年)高句麗は倭の侵攻を受けていた新羅に歩騎五万を派遣し、新羅を救援する。
来歴
治世長寿王が好太王のために作った銅器の銘文