好太王碑
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座標: .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯41度7分49.4秒 東経126度11分2.6秒 / 北緯41.130389度 東経126.184056度 / 41.130389; 126.184056好太王碑(広開土王碑)2023年6月撮影

好太王碑(こうたいおうひ, : ??????)は、高句麗の第19代の王である好太王(広開土王)の業績を称えた、現在の中華人民共和国吉林省通化市集安市に存在する石碑である。広開土王碑(こうかいどおうひ)とも言われる。付近には陵墓とみられる将軍塚や太王陵もあり、合わせて広開土王陵碑(こうかいどおうりょうひ)という。

4世紀末から5世紀初頭の朝鮮半島史や古代日朝関係史を知る上での貴重な一次史料である。
概要

この碑は、好太王の業績を称えるため子の長寿王[1][2]作成したもので、碑文によると「甲寅年九月廿九日乙酉」(西暦414年10月28日)に建てたとされる。1880年光緒6年)に国集安の農民により発見され、その翌年に関月山によって拓本が作成された。1961年には洞溝古墓群の一部として中華人民共和国の全国重点文物保護単位に指定された。

高さ約6.3メートル・幅約1.5メートルの角柱状の石碑で、その四面に計1802文字が漢文で刻まれている[3]。そのうち約200字は風化等で判読不能となっており、欠損部の解釈については様々な説がある。元々は野ざらしであったが、20世紀に屋根が設けられ、21世紀に入ってからは劣化を防ぐために碑の周辺をガラスで囲むようになっている。

好太王碑の内容に、高句麗を中心とする朝鮮半島の秩序化の理念が示されており、永楽六年の好太王による百殘(=百済)親征を正当化する理由として、その前文に「百殘・新羅はもとこれ属民にして、由来朝貢せり」と述べられているのがそれにあたり、百済・新羅はもと高句麗の朝貢国であったにもかかわらず、倭軍が侵略してこれらを臣民としたために、原状回復するということが百済親征の理由とされている[4]。「属民」とか「朝貢」という表現はもともと中国王朝の政治理念を示すものであり、中国王朝は周辺諸民族に王化を及ぼしてこれを朝貢させ、その君主を冊封して、その領域内のものを属民化すると理念した[4]。それをここでは中国の周辺国家の一つである高句麗が、自国を中心とする秩序形成を示す用語として使用しており、もともと中国王朝の冊封国であった高句麗が、中国王朝に似せた世界秩序をその理念とするようになったことが、そこに認められる[4]

好太王碑は「王」と「主」を書き分け、「王」は高句麗王に限定され、「主」は百済王を指し、しかも百済王は「殘主」(2回)、百済は「百殘」(3回)、「殘国」(1回)、「殘」(1回)などと記述されている。坂元義種は、「百済が高句麗と出身が同じだという伝承をふまえると、『百殘』は高句麗の漏れ残りとでもいう意味につかわれていた可能性がある」と指摘している[5]。高句麗軍は「官軍」、新羅王は「寐錦」、その到来は「朝貢」と記され、ここに高句麗の小中華思想がうかがわれる。また、倭(大和王権)のことを指して「倭賊」(1回)、「倭寇」(2回)と記した箇所もある[5]

七支刀の時代について『日本書紀』は百済との関係を百済側が積極的に交渉を求めて来たのだと記述している。つまり、日本は百済に対してさほど関心がなかったということである[6]。当時の百済は高句麗と激闘を繰り返し、高句麗王斯由を戦死に追い込むほど国力が盛んであり、372年には東晋から鎮東将軍・領楽浪太守の地位を与えられ、高句麗領の「楽浪」を支配する名目的な地位を獲得した。当時の百済は南方の任那にさして関心はなく、倭との関係を求めたのは、この任那に勢力を伸ばして来ている倭に関心をもったからであろう[6]。関心はやがて積極的に倭軍を利用しようとする動きに変わるが、その状況を物語るのが好太王碑である。好太王の主要な敵は日本(倭)であり、しかも繰り返し倭軍を攻撃している。倭がはるか平壌近くまで出兵する理由は百済の介在によって明らかとなり、百済の求めに応じて倭は派兵し、高句麗はそのため倭軍と戦わざるを得なかった。百済の救援要請は当然のことながら倭王の地位を高めることになり、それが倭の五王の「都督百済諸軍事」(百済を軍事的に支配する権限)の背景となる。好太王碑に好太王が新羅の要請を入れて倭軍と戦った記事もあり、倭の五王が称号に新羅における軍事支配権(「都督新羅諸軍事」)を主張する背景がここにある。しかも、新羅は高句麗の勢力を背景にして倭の勢力を排除するが、高句麗の勢力下に組み込まれたために、今度はこの高句麗を排除するため、倭の軍事力に依存しようとしたとも伝えられている。それがますます倭王の新羅に対する優位性、つまりは「都督新羅諸軍事」の主張の背景となった[6]。「秦韓」は辰韓で新羅の母体であり、「慕韓」は馬韓で百済の母体である。これらの地域を新羅や百済が完全に制圧するまでは新羅や百済に支配されることを望まない勢力があり、これらは倭に依存し、それが倭王の「都督秦韓・慕韓諸軍事」の背景となった[6]。「任那」はかつての弁韓であり、新羅百済には属さず、倭の勢力に依存し、独立的な様相を呈していた。「都督任那諸軍事」はこの任那に対する倭王の軍事支配権の主張である。その後、「都督諸軍事」に「加羅」が加号されるが、『南斉書』に建元元年(479年)加羅国王が独自に南斉に朝貢し、その王が「輔国将軍・加羅国王」に封冊されることと関係がある。つまり、高霊加羅の独立的な動きを背景にした称号追加だった[6]

1906年白鳥庫吉日本海軍が、好太王碑を日本へ搬出しようと計画したことがあるが、好太王碑が「大なる故運搬の困難にして又字面損傷の恐ありし爲め、中止」した[7]

好太王碑の存在を『日本書紀』編者が知らなかったのは当然のこととしても、高麗王朝もその存在を知らなかったかにみえ、高麗王朝代に成立した『三国史記』もその存在にふれていない。好太王碑を知らなかった『三国史記』ではあるが、高句麗百済新羅のそれぞれの本紀に関連記事をみることはできる[6]。好太王碑の最大の問題点は当時の高句麗の最大関心事であるはずの後燕との関係がまったく記されていない点にあり、その理由は好太王碑が好太王の功績を顕彰するために建立されたことにあり、高句麗の敗北や屈辱的な服属は記述の対象外だったことによる[6]。『梁書』高句麗伝は、後燕の慕容垂の死後、即位した慕容宝は「句驪王安(好太王)を以て平州牧と為し、遼東・帯方二国王に封ず。安始めて長史・司馬・參軍官を置く」と記している。好太王碑に太子が「世子」と記されているのは、好太王が後燕の封冊を受けていたことに関係がある[6]。もちろん、好太王碑には後燕による封冊記事はない[6]。しかし吉田孝は好太王碑建立の目的は王陵の守墓人330戸と、守墓人の売買禁止など禁令と罰則を記すことであって、守墓人の大部分が韓などから徴発されたことから王の武勲を記しているのであり、王の武勲を称えることが目的ではない。後燕に勝ったこともあるのにその記事がないのは守墓人の由来と関係がないためだとしている[8](後述)。

好太王碑が再び歴史の檜舞台に登場するに至ったのは、日本人の手による。この拓本を日本に招来したのは酒匂景信であり、研究に着手したのは参謀本部だった[5]。好太王碑の研究がとみに活発になったのは、李進熙の過激な発言が呼び水となった。その要点は、拓本を招来した酒匂景信は、実は碑文そのものの拓本ではなく、「すり替えた拓本」を紹介し、その後に参謀本部はこの酒匂景信の「すり替え」を隠蔽するため碑文に石灰を塗布したというのであり、当初は日本に拓本を招来した酒匂景信についてはさほど関心を引かず、酒匂景信の実態は李進熙の問題提起を受ける形で進行した[5]
呼称

「好太王碑」は「広開土王碑」とも呼称され、同じものである。古くは「高句麗碑」とか「高句麗古碑」、さらには「東扶餘永楽太王碑」とか「高句麗第十九世広開土王墓碑」などと呼称は様々だったが、やがて「好太王碑」あるいは「広開土王碑」に落ち着いた。「好太王碑」の名の由来は、碑文のなかに4箇所にわたって「国岡上広開土境平安好太王」と、その名がみえることによる[5]


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