奴隷制
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ブーランジェ 『奴隷市場』

奴隷制(どれいせい)とは、奴隷身分ないし階級として存在する社会制度
制度
供給

奴隷制は、有史以来あまねく存在したが、時代的・地域的にその現われ方は複雑かつ多様であった。抽象的にいえば生産力発達が他人の剰余労働搾取を可能とした段階以降の現象であり、始原的には共同体間に発生する戦争捕虜、被征服民に対する略奪・身分格下げ、共同体内部の階層分化、成員の処罰や売却、債務不払いなどが供給源であった。この奴隷化手段は、いずれも奴隷制の終末に至るまで主要な奴隷供給手段であり続けた。このほか、海賊盗賊、武装勢力などによって所属する社会から誘拐された人々もまた、奴隷の供給源として非常に大きな割合を占めていた[1]

戦争は奴隷供給源として非常に大きかった。ローマ帝国では2世紀頃になるとパクス・ロマーナによる戦争奴隷の枯渇により、奴隷制を主とする大農園であるラティフンディウムからコロヌスと呼ばれる小作人によるコロナートゥスへと農業経営が移行し[2]、やがて農奴制へとつながっていった。17世紀から19世紀にかけてのアフリカでは在地諸勢力間において奴隷獲得目的の戦争が多発し、戦争捕虜は輸出奴隷のほぼ半数を占めたほか、奴隷獲得目的の誘拐略奪も多発した[3]。国家間では戦争以外にも、属国から宗主国に向けて服従のしるしとして奴隷を貢納することが広く行われ、とくに19世紀までのイスラム圏やアフリカにおいては主要な奴隷供給源の一つだった[4]。貢納だけでなく、北アフリカでは国家間の贈答品としても奴隷のやりとりは行われた[5]。婚資としての奴隷贈与は広く見られ、また通貨の発行・流通していないような未開社会においては奴隷そのものが貨幣として使用されることが多かったため、こうした取引の結果としての奴隷取得も多く見られた[6]。15世紀のサハラ交易では奴隷は主にと交換され、奴隷8人から20人に対し馬1頭のレートで交換されていたとされる[7]。しかし多くの場合、奴隷身分の親から生まれた子供、つまり出生奴隷が奴隷の中で最も大きな部分を占めていた[8]
貿易18世紀中間航路の奴隷船の断面図(国立アメリカ歴史博物館の展示)

奴隷制は自前の奴隷補給が困難であったため、古来戦争による奴隷供給と奴隷商業の発達を不可欠とした。奴隷は未開の社会においてすら主要交易品の一つであり、こうした社会では対外商業活動が奴隷輸出のほかに存在しないことすらあった[9]。奴隷の取得において最も大きなものは対外貿易であり、歴史上世界各地でいくつもの大規模奴隷貿易システムが成立してきた[10]。歴史上最も大規模な奴隷貿易システムは、15世紀半ばから19世紀後半まで継続した大西洋奴隷貿易である。大西洋奴隷貿易は、16世紀半ばまでは旧世界への輸出が中心であったが、それ以降は新大陸への輸出がほとんどを占めるようになった。この時期の奴隷貿易は三角貿易と呼ばれ、ヨーロッパから弾薬綿布や鉄棒、ビーズなどを積んで出航し、アフリカ沿岸で奴隷と交換し、ブラジル西インド諸島などの新大陸で奴隷を売却し砂糖など新大陸の農産物を積んでヨーロッパへと戻るルートが主流だった。アフリカから新大陸への奴隷輸出ルートは中間航路と呼ばれ、およそ400年間に約800万人から1050万人が連れ去られ、そのうち15%から20%の奴隷が輸送途中に死亡したと考えられている[11]サハラ交易でも奴隷は金とならんでアフリカ側の主要輸出品であり、特に金を産出しないカネム・ボルヌ帝国ハウサ諸王国などサヘル中央部の諸国は奴隷を主力商品としていて、盛んに奴隷狩りを行った[12]。アフリカからはこのほかに紅海経由ルートでも多くの奴隷が輸出され[13]、また東アフリカでは内陸部から連れてこられた奴隷がザンジバルなどのインド洋沿岸諸港に集められ、インド洋交易ルートを通してアラビアインドへと多くの奴隷が輸出された[14]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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