女真文字
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モンゴル文字系の「満洲文字」とは異なります。

女真文字

女真文字による「女真」
類型:未解読文字 (表語文字表音文字の両方が認められる)
言語:女真語
発明者:完顔希尹、熙宗
時期:12世紀-15世紀
親の文字体系:契丹文字漢字

女真文字

Unicode範囲:2024年現在、割り当てなし
ISO 15924 コード:.mw-parser-output .monospaced{font-family:monospace,monospace}Jurc
注意: このページはUnicodeで書かれた国際音声記号 (IPA) を含む場合があります。
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音素文字の歴史


青銅器時代中期-原シナイ
前19-15世紀

ウガリット 前15世紀


原カナン 前14世紀

フェニキア 前11世紀

古ヘブライ 前10世紀

サマリア 前6世紀


アラム 前9世紀

ブラーフミー 前6世紀
インド系

チベット 7世紀

クメール 7世紀

ジャワ 9世紀
他多数


ヘブライ 前3世紀

シリア 前2世紀

ナバテア 前2世紀

アラビア 4世紀

ペルシア 7世紀

ウルドゥ 11世紀

ターナ 18世紀



パフラヴィ 前2世紀

アヴェスタ 4世紀


ソグド

突厥 5世紀

ウイグル 8世紀

(契丹小字 10世紀)

(女真小字 12世紀)


モンゴル 13世紀

満洲 16世紀

シベ 20世紀


トド 17世紀

ワキンダラー 20世紀




ギリシア 前9世紀

エトルリア 前8世紀

ラテン 前7世紀

ルーン 2世紀

オガム 4世紀

ゴート 4世紀



コプト 300年

グルジア 4世紀

アルメニア 405年

グラゴル 862年

キリル 10世紀



イベリア 前6世紀


南アラビア 前9世紀

ゲエズ 前5–6世紀


メロエ 前3世紀
カナダ先住民 1840年
注音 1913年

女真文字(じょしんもじ、女真文: 、発音: [d?u ?? bitx?])は、中国東北部華北及び華中の一部にを建てた女真が使用した文字。女真大字と女真小字の2種類の文字があるとされる。
概要明王慎コ、四夷咸賓の印

字形は、全体に正方形に収まる形をし、漢字と共通した部品が使われているなど、全体の構造が漢字に似ている。『女真訳語』に見られる文字の画数は10画未満で、隣国西夏西夏文字のような複雑さはない。明らかに漢字から借用されたと思われる文字と、契丹文字由来と思われる文字、由来不明の文字等が混淆しているように見える。また、表音文字表語文字が混在しており、表音表記も必ずしも一音節を表すとは限らず、複数の音節を表すと思われる文字も存在し、音節文字としての法則は明らかではない。日本の国字とは相互に影響し合ってはいないと見られるが、「凩」に似た文字もある。書体には、楷書の他に草書も存在する。

文献資料として、明代に編纂されたとされる華夷訳語のひとつ『女真訳語』があり、また女真文字を記した碑文(金石文)や遺物も比較的(契丹文字よりは)多く存在する。

現存の12件の女真大字石刻のうち、11件は12世紀から13世紀の金代に集中しており、1件は明代に属するものである。
慶源郡女真大字碑(天眷元年または皇統元年7月26日(1138年9月2日または1141年8月29日))

海龍女真大字石刻(大定7年(1167年)3月)

大金得勝陀頌碑(大定25年7月28日(1185年8月29日))

昭勇大將軍同知雄州節度使墓碑(大定26年4月26日(1186年5月16日))

金上京女真大字勸學碑(世宗の治世)

蒙古九峰石壁女真大字石刻(明昌7年(1196年)6月)

奥屯良弼詩石刻(承安5年(1200年))

奥屯良弼餞飲碑(大安2年7月29日(1210年8月11日))

北青女真大字石刻(興定2年7月26日(1218年8月18日))

女真進士題名碑(正大元年6月15日(1224年7月3日))

希里札剌(ヒリジャラ)謀克孛菫女真大字石函(金代中晩期)

永寧寺記碑(永楽11年9月22日(1413年10月16日))…明代の石碑

歴史

女真(ジュシェン)人の言語女真語は、アルタイ語系ツングース・満洲語のひとつである[1]12世紀に金が建国され、中国内地北部に進出したのにともない、分布が拡大した[1]。金はモンゴル帝国によって滅ぼされたが、女真語は代まで引き続き話された[1]。その言語は、満洲語と姉妹語関係にあったというよりは、むしろ方言的関係にあって、広義の満洲語のなかに没していったものと考えられている[1][2]

ジュシェン(女真)は、ツングース系の人びとのなかでは最も早く文字を作成した民族であるが、そこでは契丹(キタン)人の契丹文字からの刺激をおおいに受けている[2]。契丹文字は、残っている資料の絶対量が圧倒的に少なく、他文字・他言語との対訳という手がかりにも乏しいため、世界中の言語学者や歴史学者の努力にもかかわらず、いまだ充分な解読には至っていない[3]。契丹大字が漢字と同じ表意文字、契丹小字が表音文字であることは判明しており、女真文字の創成にも影響をあたえた[4]。また、金朝においてもキタン人と漢人の翻訳官が採用されており、女真文字は契丹文字と漢字とに翻訳されていた[4]1191年、第5代皇帝世宗の国粋主義的政策のなかで、公文書における契丹文字の使用が廃止された[4]

当初、文字を持たなかったジュシェン人であったが、金朝創始者のアクダの時代にはキタン、宋それぞれが新興ジュシェンとさかんに交渉をおこなっており、キタンとの交渉に際しては文書を契丹文字に直していた[2]


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