女子挺身隊(じょしていしんたい)は、大日本帝国が第二次世界大戦中に創設した勤労奉仕団体のひとつで、主に未婚女性によって構成されていた。戦時日本の労働力が逼迫する中で、強制的に職場を配置換えする国家総動員法下の国民総動員体制の補助として行われ、工場などでの勤労労働に従事した[1]。1944年8月の女子挺身勤労令によって12歳?40歳の内地(日本)の女性が動員された[2]。日本統治下の朝鮮の女性への適用は検討されたが、適用されることはなかった[2]。1945年の国民勤労動員令によって女子挺身隊は国民義勇隊として改組され、消滅した。目次 女子挺身隊は女子勤労挺身隊、略して挺身隊ともいう[3]。日本統治下の朝鮮での官斡旋の募集による挺身隊は朝鮮女子勤勞挺身隊(ko:????????? 挺身という言葉は「自ら進み出ること、自分の身を投げ出して物事をすること」を指し[4]、挺身隊とは「任務を遂行するために身を投げうって物事をする組織」のことである[5]。この挺身隊という表現の使用例としては、 尹明淑は「挺身隊という用語は、男女の区別なく用いられ、特定団体を示す語ではなかった。」としている[13]。朝鮮での「挺身隊」の初出は毎日新報1940年11月13日の農村挺身隊結成記事とされる[13]。このほか婦人農業挺身隊、医師や看護婦を対象にした仁術報国挺身隊、漁業挺身隊、文化、商工、報道、運輸、金融、産業などの32団体で結成された半島功報挺身隊など様々な動員に対する呼称表現が使用されていた[13]。朝鮮(韓国)では、未婚女性を挺身隊として勤労動員することは、「処女供出」とも呼ばれた。尹明淑によれば朝鮮語の「処女」とは未婚女性や若い女性を指す総称であるという[14] こうした「挺身隊」という表現を女性を対象とした動員に正式に適用された「女子挺身隊」が日本内地で結成されたのは1944年8月の女子挺身勤労令においてである。それ以前には1941年の国民勤労報国協力令で「勤労報国隊」が結成され[15]、1943年9月13日の次官会議「女子勤労動員ノ促進ニ関スル件」において「女子勤労挺身隊」が自主的に結成されるようになった[3]。 朝鮮では官斡旋による募集はあったが、女子挺身勤労令が正式に発令されることはなかった[2]。 日本統治下の朝鮮では「挺身隊になると慰安婦にされる」という噂が広まっていた[16][17][13]。また韓国では朝鮮戦争時の韓国軍慰安婦を「挺身隊」と呼んだ[18]。 さらに1960年代の朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』や塩田庄兵衛などの著作をはじめ[19]、日本や韓国で挺身隊を「慰安婦」と同一視し、混同することが繰り返された[16][17][20][13]。韓国では慰安婦を挺身隊と呼ぶことが一般に定着している[20][21][13]。
1 名称
1.1 「挺身隊」という表現
1.2 挺身隊と慰安婦
2 背景
3 沿革
3.1 勤労報国隊の結成
3.2 女子勤労挺身隊の結成
3.3 女子挺身勤労令発令
4 朝鮮における官斡旋の挺身隊
4.1 派遣場所
4.1.1 東京麻糸紡績沼津工場
4.1.2 富山不二越工場
4.1.3 名古屋三菱航空機道徳工場
5 統計
6 朝鮮での「挺身隊」と「慰安婦」の混同
6.1 戦時中の流言(デマ)
6.2 戦後
6.2.1 1960年代
6.2.2 1970年代
6.2.3 1980年代
6.2.4 1990年代
7 近年
7.1 研究
7.2 運動団体
8 年表
9 脚注
10 参考文献・関連文献
11 外部リンク
12 関連項目
名称
「挺身隊」という表現
1922年4月23日-5月11日の大阪時事新報で連載された「人物伝記張作霖六」で「日本軍の別働隊となり、蒙古の地域に進出して、我挺身隊を助けた功労は少くなかった」[6]。
1933年8.13-9.3の大阪朝日新聞「報道権本社独占熱河探検記」では「さながら学術の挺身隊が科学の…」という表現[7]
同年11.28-12.7の大阪時事新報記事「誂え向の大連 一衣帯水の北支へ 条件すべて“O・K” ジャンク貿易」では「貿易『挺身隊』なる面目」「海の挺身隊」という表現[8]
1933年(昭和8年)内務省警保局の資料では「救国埼玉青年挺身隊事件」という用例[9]
1935年(昭和10年)2月26日の神戸新聞では「ボルネオの処女密林めざし伐材挺身隊出発」記事が掲載[10]、1941年5月30日大阪毎日新聞には「農業報国挺身隊」[11]
これらのほか「独挺身隊米本土に潜入」としてドイツの「挺身隊」という表現もあった[12]。
挺身隊と慰安婦