奧田義人
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奥田 義人
人物情報
別名秋軒(
生誕 (1860-07-31) 1860年7月31日万延元年6月14日
死没 (1917-08-21) 1917年8月21日(57歳没)
国籍 日本
出身校東京大学法学部
配偶者やゑ(武井正平次女)
両親成績(父)、房(母)
子供剛郎(長男)、咲子(松平忠寿妻)、竜(次女・和田正彦妻)、文(三女・野呂一雄妻)、博(四女・浜本義賢妻)、成孝(次男)、正博(三男)
学問
研究分野法学民法行政法
学位法学博士(日本・1903年)
主要な作品『民法親族法論』『民法相続法論』(1898年)
学会法学協会
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日本政治家奥田 義人
所属政党(猶興会→)
立憲政友会交友倶楽部
第19代司法大臣
内閣第1次山本内閣
在任期間1913年11月11日 - 1914年4月16日
第24代文部大臣
内閣第1次山本内閣
在任期間1913年2月20日 - 1914年3月6日
貴族院議員
選挙区(勅選議員
在任期間1912年5月27日 - 1917年8月21日
衆議院議員
選挙区鳥取県鳥取市
当選回数2回
在任期間1903年3月1日 - 1908年3月27日
東京市長
在任期間1915年6月15日 - 1917年8月21日
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奥田 義人(おくだ よしと / よしんど / ぎじん、1860年7月31日万延元年6月14日)- 1917年大正6年)8月21日)は、明治時代から大正時代にかけての日本官僚政治家法学者学位は、法学博士従二位勲一等男爵は秋軒。

衆議院議員(当選2回)、貴族院議員(勅選)、第1次山本内閣文部大臣司法大臣を歴任したほか、晩年には請われて東京市長も務めている。また中央大学の創設者の一人で、第2代学長
来歴

鳥取県邑美郡栗谷町(現在の鳥取市栗谷町)に生まれる。幼名は留三郎[1]。父奥田鉄蔵は禄高300石の鳥取藩士で、作事組頭、武術師範を務めた[1]

7歳のとき藩の儒者坂田順蔵の門弟となり、藩校・尚徳館に入学。四書五経の素読を教わり、大いに学力を身につけた[2]

鳥取変則中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)に入ってからは優秀な成績をおさめ、幾度も級長を務めた[2]

名古屋英語学校、京都府中学校を経て明治10年(1877年)9月3日に上京する[2]。不眠不休で勉強して大学予備門への入学を果たした[3]

明治13年(1880年)7月、東京大学法学部に入学[3]明治17年(1884年)7月、優秀な成績で東大を卒業した[3]

藩閥のうしろだてのない義人は、北垣国道の口添えで伊藤博文の知遇を得、官界入りした[1]。義人の振り出しは太政官御用掛で、伊東巳代治らを補佐して憲法起草にあたったが、内閣制度発足とともに農商務省参事官となった[1]

以後、歴代内閣にあって特許局長、内閣官報局長、衆議院書記官長拓殖務次官農商務次官、法制局長官を歴任[1]

明治36年(1903年)3月、鳥取県鳥取区と神奈川県横浜区から無所属で第8回総選挙に立候補して当選し政界入りを果たし、神奈川県横浜区の当選を辞退して加藤高明が繰上補充となった[4]

明治37年(1904年)3月の解散後は鳥取県鳥取区から第9回総選挙に無名倶楽部公認で立候補して再選を果たす。明治41年(1908年)4月21日、宮中顧問官[5]に任じられ、1913年2月21日まで在任[6]。明治45年(1912年)5月27日、貴族院勅選議員に勅任された[7]

大正2年(1913年)第1次山本内閣が発足すると文部大臣を拝命、鳥取県出身者としては初の大臣となった[1]。在任中、文部省官制を改正し、内務省宗教局が扱っていた宗教行政を新設の文部省宗教局に移管し[8] 、皇道宣布運動を推進した。

その後、同内閣の松田正久法相の病気辞任により司法大臣を兼任したが、シーメンス事件のため大正3年(1914年)3月には内閣総辞職となった。野に下った奥田は中央大学学長に迎えられたが、翌年6月、東京市会の強い要請により東京市長に就任。

大正6年(1917年)8月21日、肝腫瘍のため病没[9]。死去の一週間前8月14日に多年の功績により男爵を叙爵した[10]
親族

長男
奥田剛郎(検事、貴族院男爵議員)[11]

栄典奥田義人
位階


1886年(明治19年)7月8日 - 正七位[12]

1891年(明治24年)


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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