奥羽越列藩同盟
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奥羽越列藩同盟旗、黒地のものと白地のものがある会津若松の祭典にて列藩同盟旗を掲げる旗手

奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)は、戊辰戦争中の1868年慶応4年/明治元年)5月6日に成立した同盟で、陸奥国(奥州)・出羽国(羽州)および越後国(越州)の諸藩が、輪王寺宮公現入道親王[1] を盟主とした、反維新政府的攻守同盟、または地方政権[2]

奥羽諸藩は新政府が仙台藩に派遣した奥羽鎮撫総督に従っていたが、奥羽諸藩は会津藩庄内藩の「朝敵」赦免嘆願を行い、その目的を達成するための同志的結合が形成されていた。しかし、この赦免嘆願が拒絶された後は、列藩同盟は新政府軍に対抗する諸藩の軍事同盟へと変貌した。一説には公現入道親王を天皇として擁立した東北朝廷であったともされるが[2]、同盟自体がそのような表現を公式に行ったことはなく、「幼君(明治天皇)の君側の奸である薩賊(薩摩藩)を除く」ことが目的であると主張している[3]

成立間もない5月中に新政府軍は東北への侵攻を開始、同盟諸藩は新政府軍との戦闘を行ったが、勝利をおさめることはできずに個々に降伏(戊辰戦争)。9月には中心的存在の仙台、会津が降伏し、同盟は消滅した[2]
背景

幕末期、会津藩主・松平容保京都守護職、庄内藩主・酒井忠篤は江戸市中取締を命ぜられていた。特に会津藩は一会桑政権を構成し、長州藩、後に薩摩藩と対立していた。

仙台藩は62万石という、奥羽随一の石高を持ち、藩主である伊達慶邦従四位上左近衛権中将という高い位階を持っていた。開国以来の政治的変化に対し、奉行の遠藤允信らは朝廷と接近し、積極的に中央に介入しようと主張し、藩に利益のない中央情勢への介入を嫌い、現状維持を主張する但木土佐らの勢力と対立していた[4]文久3年(1863年1月には遠藤らが失脚[5]、慶邦は幕府政事総裁職就任も断り、政局から距離を置く方針を明確にしていた[6]
会津・庄内への降伏交渉

慶応4年(1868年)1月9日鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗れると、松平容保は江戸に戻った。1月17日、新政府は仙台藩に会津藩追討を命じた[7]。しかし仙台は兵を出さなかった。

2月9日、新政府は澤為量を奥羽鎮撫総督に任じた[8]2月16日、容保は隠居を表明し、朝廷に対する謝罪状を提出して会津に戻った[9]3月2日、澤に代わって奥羽鎮撫総督となった九条道孝、副総督となった澤らが京都をたって3月23日仙台に入った。奥羽鎮撫総督府は伊達慶邦と米沢藩主・上杉斉憲に対し、容保に降伏を求めるよう命じた[10]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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