奥田碩
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おくだ ひろし奥田 碩
2005年11月21日東京都で開催された
日露ビジネスフォーラムにて
生誕 (1932-12-29) 1932年12月29日(89歳)
三重県津市
出身校一橋大学商学部卒業
職業トヨタ自動車元社長・元会長
日本経済団体連合会名誉会長
親戚弟:奥田務(元J.フロント リテイリングCEO)
叔父:鬼頭白雨(歌人)
又従姉米川みちこ(童話作家)
栄誉旭日大綬章

奥田 碩(おくだ ひろし、1932年12月29日 - )は、日本の実業家トヨタ自動車社長、同社会長、日本経営者団体連盟会長、日本経済団体連合会会長、内閣特別顧問日本郵政取締役兼指名委員長兼報酬委員長、国際協力銀行総裁、トヨタ財団会長等を歴任。勲等旭日大綬章
来歴・人物
生い立ち

三重県津市出身。三重県立津高等学校(疎開を機に転校)、松阪北高等学校(現・三重県立松阪工業高等学校)を経て、1955年一橋大学商学部を卒業。奥田務(元J.フロント リテイリング会長兼CEO)は実弟。

幼少時は、祖父や父が三重県最大の証券会社・奥田証券を営んでおり裕福だった。慶應義塾大学経済学部出身の父は温和だったが、祖父は気性が荒く、芦屋市に別邸を構えた相場師だったことから、ギャンブル好きの碩の性格について、両親は祖父の血を引き継いだと考えていたという。

第二次世界大戦日本本土空襲により、実家が全焼。祖母が住んでいた飯南郡射和村上蛸路(現松阪市上蛸路町)に疎開。全財産を失い、戦後も祖母の家の近くで、7人兄弟、9人家族で狭い借家に住むこととなった。家業の奥田証券も破綻し、債務超過のため相続放棄を余儀なくされ、高校の授業にも出席せず、修学旅行にも参加できず、1人大学受験勉強をして孤独に過ごした。後年、東京証券取引所役員を務め、当時大阪証券取引所の役員を務めていた弟の奥田務と、合併により誕生した日本取引所グループの役員会で会った際には、「祖父と父が見たら喜ぶやろね」と語り合ったという[1]

柔和な表情が多く、地位にこだわらない飄々とした印象を持たれることが多いものの、幼い頃から競争心の強い負けず嫌いな性格で、経済的な困窮生活を送った経験から、いつか見返してやりたいという気を持ち、会社での栄達を望んだという。また180cmの長身で12歳から柔道を始め、大学でも柔道部に所属。在学中に柔道四段を取得し(のちに六段)、1952年の東京都国公立大学ジュニア選手権リーグ戦では、1チーム5名の点取り試合方式で、チーム優勝した[2]。大学柔道部で1年後輩だった高橋宏(元首都大学東京理事長)は、奥田の性格について、気さくな性格だったが、「眠狂四郎のような雰囲気」の物静かな人柄で、徒党を組むタイプではなかったと評する。趣味はギャンブルカラオケ読書で、山本周五郎などの歴史小説古典を好む[3]。カラオケ仲間には加藤紘一などがいる[4][5]
社長就任まで

1955年に大学を卒業し、不景気による就職難の折、知人の紹介でトヨタ自動車販売株式会社(現・トヨタ自動車株式会社)に入社し、経理畑を歩む。上司と何度も論争するなど、歯に衣着せぬ性格だったが、入社3年目で総勘定元帳の管理を任されるようになった。この総勘定元帳をもとに、上司や役員の不明瞭な取引を直接問い詰めたため、「生意気だ。」との評判が立つようになる。またギャンブルを好み、独身寮時代は、競馬で大負けし、「血を吐くような思いをした。」という。なお、後年には日本中央競馬会経営委員長を務めた[6]

生真面目な経理部部員が多い中で麻雀飲酒を行っていたことから同僚から浮き、歯に衣着せぬ言動から上司ともぶつかり、17年間経理を担当して仕事に飽きてきたこともあり、東南アジアでのエンジン開発事業への異動を希望し、1972年秋から6年半、マニラ駐在員事務所に赴任する[7]。ここで奥田は、フィリピン政商で、現地でトヨタ車の組み立て・販売を独占するデルタ・モーターの社長リカルド・C・シルベリオからトヨタへの延滞金を取り立てる任務に就く。肩書きは「経理アドバイザー」。これは困難な任務であり、また、マニラには日本人技術者が2人いるだけであり、事実上の左遷であったが、奥田は当時のマルコス大統領らとのコネクションを生かし、未納金の回収に成功した。

当時、マニラには豊田章一郎の娘婿・藤本進が大蔵省からアジア開発銀行に出向して来ており、奥田は章一郎が孫の顔を見に来るたびに同行し、このころから章一郎と奥田の関係が始まった。またマニラを訪れた豊田英二にも直接対応する機会を得た。奥田からマルコス大統領のマラカニアン宮殿などにも案内された章一郎は、奥田の才能を認め、「マニラでこんなやつがくすぶっているのか。本社の人事は何をしているんだ」とまで言ったという[3]

1979年に豪亜部長に昇格し帰国。1982年取締役就任。85年にはアメリカ進出のための用地選定を任され、当時会長だった豊田英二から北米事業準備室副室長に指名される。全米からの応募の中から各知事との交渉に当たり、最終的にケンタッキー州工場の誘致に到る。

1987年に常務取締役、1988年に専務取締役、1992年に取締役副社長となり、1995年の日米自動車協議では、駐日アメリカ合衆国大使館アメリカ合衆国通商代表部関係者と連絡を取り合うなど日米貿易摩擦問題にあたった[8]
社長時代

1995年8月に、28年ぶりに豊田家出身以外で代表取締役社長に就任した[8]

社長時代にはそれまでどちらかといえば良い意味で保守的だったトヨタを改革したと言われている。奥田は例えば、世界に先駆けてハイブリッドカープリウス」をトップダウンによる判断で発売したことや、東富士研究所に直接訪れ、それまでトヨタが敬遠していたF1への参戦を指示したこと、社長就任直後にダイハツ工業連結子会社化を断行したり、就任翌年の1996年には常務以上の役員19名のうち17名を総入れ替えしたことなどである[9][10]。1997年には社長直轄組織のVVC(ヴァーチャル・ベンチャー・カンパニー)を設立、稟議書の決裁速度の速さも有名だった[6]。奥田時代、当時国内販売で落ち込んでいたシェアを3年がかりで40%代まで回復させるなど、奥田の時代からトヨタは「攻め」の姿勢に転じて躍進を遂げ、現在の世界第1位の自動車メーカーの座を手にした。このことから、彼の経営手腕は一般的に高く評価されており、ハウツー本が出販されたり他のメーカーの中には彼の改革を手本にする企業まで出てきた。1997年には、米「ビジネスウィーク」誌で、世界最優秀経営者の1人に選出され、イェール大学に講演で招かれるなどした[3]

奥田の諸改革には常に後ろ盾として豊田章一郎の姿があり、奥田も豊田本家の章一郎を求心力として旗印にし、常に豊田家を立てつつ改革を進めた。

その一方で、スポーツタイプの車種を全廃した戦略、モータースポーツを広告として捉えるやり方への批判、従業員に過度のサービス残業を強いて労働基準監督署の査察を度々受ける事態を招いたり、業績好調にもかかわらず外国人労働者非正規雇用の確保で賃金の抑制を行ったり、世界第1位の自動車メーカーになることを目標に安易な拡大路線に走り品質管理を怠ったことが、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}2010年のトヨタの大量リコールに繋がったとする指摘もある[要出典]など、彼の経営姿勢を批判する声もきわめて多く、改革への評価と表裏一体である。
財界トップへ 2005年11月21日、日露ビジネスフォーラムにてロシア連邦大統領ウラジーミル・プーチン(左)と

1999年6月、次期社長に副社長だった張富士夫を指名して代表取締役会長就任。また1998年には、社団法人日本経営者団体連盟会長就任。

その後2006年まで社団法人日本経済団体連合会会長を務め、8年にわたって財界トップの座にあったほか、歴代内閣で経済財政諮問会議や各種審議会、有識者会議の委員を数多く務め、多数の企業の役員に名を連ねるなど政財界に大きな影響力を誇った。その評価は、毀誉褒貶さまざまである。

その他、2001年には株式会社東京証券取引所取締役、2002年には株式会社UFJホールディングス取締役にそれぞれ就任。株式会社楽天野球団経営諮問委員会委員、KDDI株式会社監査役・取締役、株式会社豊田自動織機監査役、東和不動産株式会社取締役、中京ゴルフ倶楽部株式会社理事、株式会社豊田中央研究所取締役(2006年まで)、株式会社デンソー取締役(2003年まで)、株式会社グレイスヒルズカントリー倶楽部理事等も務める。
会長退任後 2008年5月26日、地球温暖化問題に関する懇談会の会合にて内閣総理大臣福田康夫(中央)らと

2006年、トヨタ自動車会長及び経団連会長退任とともに経営の第一線から退く意向を示したが、社内の意向により同社取締役相談役に就任。

その後、2007年、福田康夫内閣内閣特別顧問に就任、総理特使として、サウジアラビアアラブ首長国連邦カタールバーレーンクウェートオマーン等に派遣され、各国首脳と会談を行った[11]

2008年、麻生内閣発足にともない内閣特別顧問退任。同年、社会保障国民会議委員及び、各種年金問題を受け、社会保険庁を廃止し新たに日本年金機構を設立するために設けられた、日本年金機構設立委員会[12]の委員長に就任[13]。2009年、同委員会は、機構への採用を希望した社会保険庁職員1万1118人のうち9971人を内定した[14]

2009年に取締役名誉会長だった豊田章一郎と共にトヨタ自動車の取締役を退任し、非取締役の相談役に退いた[15]。2012年4月、国際協力銀行総裁への就任[16]に伴い相談役を退任した[16]

民主党政調会長代行・仙谷由人から勝俣恒久会長の後任として東京電力会長就任の打診を受け、受諾する方針だったが、トヨタ自動車の経営陣から、2011年の福島第一原子力発電所事故で非難を浴びている東京電力の会長に就任することでトヨタ自動車製品へのボイコットにつながる懸念が示され、辞退した[17]
日本郵政での活動

2002年、第1次小泉第1次改造内閣片山虎之助総務大臣より日本郵政公社設立委員に任命され、座長に就任。中期経営目標や経営計画の協議、決定に携わる。翌2003年に発足した日本郵政公社ではいったん理事に内定するも辞退し、代わりに同じ自動車業界から宗国旨英日本自動車工業会会長が理事に就任。その後2005年に日本郵政株式会社の社外取締役に就任し、指名委員会委員や報酬委員会委員長も務めた。

2009年の日本郵政かんぽの宿売却問題では、日本郵政取締役の選解任の認可権を有する[18]鳩山邦夫総務大臣が、西川善文日本郵政社長の続投に反対していた。


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