奥州後三年記
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奥州後三年記(おうしゅうごさんねんき)は、平安時代後期の永保3年(1083年)から、寛治2年(1088年)にかけての、陸奥出羽両国にまたがった争乱、いわゆる「後三年の役」、または「義家合戦」と呼ばれるものを描いたものである。実際には永保3年(1083年)から寛治元年(1087年)の5年間の戦いであったが、「十二年合戦」(前九年合戦の古称)が前九年・後三年の両方を指すとする誤解が鎌倉後期に生じ、前者を9年間(実際には12年間)、後者を3年間(実際には5年間)と振り分ける呼称が成立した[1]。その成立については、長らく南北朝時代貞和3年(1347年)とされてきたが、野中哲照は丁寧語「侍り」の用法などから院政初期の成立であることを明らかにした[2]『後三年合戦絵詞』の「雁行の乱れ」『後三年合戦絵詞』の源義家
『後三年記』から貞和本『後三年合戦絵詞』を経て『奥州後三年記』へ

『後三年記』原本は院政初期に平泉藤原氏の初代藤原清衡のもとで成立したとされる[3]。そこから承安元年(1171年)に後白河上皇のもとで承安本『後三年絵』が制作されたり、貞和3年(1347年)に貞和本『後三年合戦絵詞』(画工は飛騨守惟久)がつくられたりした。貞和本は、もと6巻存在したとされ、そのうちの3巻が東京国立博物館に収蔵されている。現存『奥州後三年記』と称する写本・刊本類はすべて東博本の影響下にあるとされ、東博本が最善本であるという[4]。近世初期に『奥州後三年記』の名称となり、『群書類従』第二十に収載された。その「序」にはこうある。俗呼でこれを八幡殿の後三年の軍と称す。星霜はおほくあらたまれども、彼佳名は朽ることなし。源流広く施して今にいたりて又弥新なり。古来の美歎、誰か其威徳を仰がざらん。世上のしるところ猶ゆくすゑにつたへ示さん事を思ふ。・・・于時貞和三年、法印権大僧都玄慧、一谷の衆命に応じて大綱の小序を記すといふことしかり。

序文を書いた玄慧は、天台密教を修めて法印権大僧都となった当時屈指の学僧である。持明院殿の殿上で『論語』を談じて、花園上皇にも認められる。その後も足利尊氏の弟、足利直義の恩顧を受けて、没後には、その文雅を慕って追悼の詩を作る禅僧達もいたと伝えられる。その当時屈指の学僧が、序文を担当していることで、この絵巻がかなりの一大事業であったことが判る。

実隆公記永正1506年)3年11月12日条に、中原康富がその絵を実見したとあって、詞書は源恵(玄慧)法印が草し、詞書筆者は「第一尊円親王、第二公忠公、第三六条中納言有光、第四仲直朝臣、第五保脩朝臣、第六行忠卿」(増補史料大成刊行会編『史料大成』1965年)とある。

中原康富が見たものは、後述する『康富記』により、後白河法皇の承安本『後三年絵』であるので、三条西実隆は承安本『後三年絵』を知らなかったのか、取り違えたのかもしれない。しかし、各巻の詞書筆者は、東京国立博物館蔵の現存『後三年合戦絵詞』各巻末に記された筆者名と見事に一致しているという。このことから、貞和本『後三年合戦絵詞』は、本来6巻であったとされる。東京国立博物館に収蔵されている貞和本『後三年合戦絵詞』は全6巻のうち3巻に留まるが、群書類従本には冒頭の1巻分が残存しており、合わせて4巻分のストーリーを追うことができる。それでもなお欠けている2巻分の内容については、この『康富記』によって補うことができる(後述)。
後白河法皇の承安本『後三年絵』

平安時代末期の承安元年(1171年)、平治の乱から約10年、平清盛の娘を中宮とする高倉天皇の即位後、後白河院が出家して法皇となった後に、後白河法皇が静賢法印に命じ、絵師明実の筆による4巻の絵巻を制作させたことが知られる。それを記した吉田経房の日記『吉記』承安4年(1174年)3月17日条には、「義家朝臣為陸奥守之時、與彼国住人武衡家衡等合戦絵也」とある。

静賢法印は平治の乱で源義朝に殺害された信西(藤原通憲)の子で、後白河院の信任を得て蓮華王院(三十三間堂)執行(寺院総括者・上座)を任じられ、『後三年絵』を始めとした絵巻に関与した。以下これを現存貞和本『後三年合戦絵詞』と区別するため、以降承安本『後三年絵』と記す。

この蓮華王院の承安本『後三年絵』の存在は思わぬところにもうひとつの傍証があった。武蔵国の秩父、阿久原牧を管理していた有道一族が、武蔵七党のひとつ、児玉党の長となるが、その庶流に、源頼朝の御家人となった小代氏がいる。鎌倉時代後半に、その小代伊重が残した子孫への置き文が伝わっており、その中に、鎌倉時代の初めの頃、当時京都守護であった平賀朝雅とその一行が、蓮華王院の宝蔵に秘蔵されていた絵巻を見せてもらったとある(後述)。

この後白河法皇が作らせた絵巻は、後年、文安元年(1444年)に中原康富(やすとみ)が、伏見宮貞常親王の伏見殿に行った折り、御室(仁和寺)宝蔵から取り寄せた『後三年絵』という4巻からなる絵巻を見せてもらい、康富はそこで見た絵巻の粗筋を、漢文で日記に記した。(『康富記』閏6月23日条)

現存する『奥州後三年記』『後三年合戦絵詞』ともに欠けている部分、例えば清原真衡の死と、その後の清原清衡と異父弟・清原家衡の衝突の経緯などを、この「康富記」から知ることが出来る。例えば清原真衡の死については、「此間真衡於出羽発向之路中侵病頓死了」とある。

この承安本『後三年絵』は現存しないが、しかし『康富記』の内容から、現存する貞和本『後三年合戦絵詞』は、源義家に関わる説話の増補が想定されるとはいえ、基本的には承安本『後三年絵』とほぼ一致しているはずだと見られている[5]

尚、『康富記』での「後三年絵」に関するほぼ全文が、関幸彦『武士の誕生』(NHKブックス1999年)に漢文でなく書き下し文で載っているほか、欠失部については野中哲照『後三年記詳注』に注釈や現代語訳も掲載されている。

『奥州後三年記』の信頼性『後三年合戦絵詞』「雁行の乱れ」の騎馬武者

従来、貞和本『後三年合戦絵詞』以前にこの物語の成立は遡れないと考えられてきたが、『後三年記』にみえる丁寧語「侍り」の用法が院政初期の様相を呈していることや、『十訓抄』や『古今著聞集』にみえる後三年関係話よりも『後三年記』のほうが古い様相を留めていること、前九年合戦のことを指す熟語(「十二年合戦」「前九年合戦」など)が『後三年記』内部にみられないことなどから、院政初期の成立と考えられるに至っている(野中哲照は、天治元年(1124年)成立という踏み込んだ仮説を提示している)[2]
『奥州後三年記』の残虐性城中の美女ども、つはものあらそひ取て陣のうちへゐて来る。おとこの首は鉾にさゝれて先にゆく。此は妻はなみだをながしてしりに行。

これを、「夫の首を妻が泣きながら追いかけた」と説明する学者も居るが、「男は殺され、その妻は連行されて慰みものにされた」と読むのが正しい。

この話が、乱の直後から伝えられたものとの想定すれば、さして年代は違わないはずの『今昔物語集』の何処を見ても、例えば「平維茂、藤原諸任を罰ちたる語」の話などと比べても、このような凄惨さは類を見ない。尚、『今昔物語集』にも、巻25の14話に「源義家朝臣、罰清原武衡等話」があったらしいが、タイトルが残るだけで本文は伝えられていない。

『奥州後三年記』も、貞和版『後三年合戦絵詞』も、その特徴のひとつは残虐性である。確かに『陸奥話記』にも、藤原経清の首を鈍刀をもって、何度も打ち据えるように斬り殺した、というような話はあるが、レベルが違いすぎる。また、『陸奥話記』には、源頼義を賛美しながら一方で、安倍氏に対する同情ともとれる、人間味あふれる記述の方が勝っている。『奥州後三年記』にはそのような人の心のあたたかさは感じられない。千任が舌をきりをはりて、しばりかゞめて木の枝につりかけて、足を地につけずして、足の下に武衡がくびををけり。千任なくなくあしをかゞめて是をふまず。しばらくありて、ちから盡て足をさげてつゐに主の首をふみつ。将軍これをみてらうどうどもにいふやう。二年の愁眉けふすでにひらけぬ。

この話を詳細に書き記し、舌を引き抜く処、その後千任が木に吊され、力尽きて主人清原武衡の生首を踏んでしまうところを絵に描いた嗜虐性を、後白河法皇の嗜虐性と見る見方もある。

しかしながら、京に伝えられた義家の無間地獄の伝承や、義家の同時代人藤原宗忠が、その日記『中右記』に、「故義家朝臣は年来武者の長者として多く無罪の人を殺すと云々。積悪の余り、遂に子孫に及ぶか」と記したことも合わせ考えると、義家に従って参戦した京武者から伝え聞いた義家のひとつの側面であり実話と見なしうる。

貞和版『後三年合戦絵詞』詞書は、玄慧法印が草したとあるので、表現自体は玄慧のもの、絵自体は飛騨守惟久の筆だが、同じ話は後白河法皇の承安版『後三年絵』にも載っていたはずである。後白河法皇の嗜虐性があったとすれば、承安版の編集に当たって、それを強調したことだろう。後白河法皇が編纂した『梁塵秘抄』巻第二にある「鷲の棲む深山には、概ての鳥は棲むものか、同じき源氏と申せども、八幡太郎は恐ろしや」は、そのような言い伝えを反映しているものと思われる。

また、義家の同時代人、藤原宗忠が「多く無罪の人を殺すと云々。


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