奥山廻り
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『新川郡奥山絵圖』古写図、脇坂長右衛門筆
天保7年(1836)、富山県立図書館蔵

奥山廻り(おくやままわり)とは加賀藩立山白山の奥山での国境警備と、など重要な樹木7種(七木)の保全の為に組織した見分役である。これは十村分役の一つである山廻り役への加役または兼役として命じられたもので、独立した役名ではなく職名であり奥山廻り御用とも呼ばれる[1]。ここでは黒部奥山(立山の奥山)での奥山廻りについて述べる。
概要

江戸時代初期の地図は立山の背後は空白であった。黒部川も下流から中流にかけては描かれているが、上流域は山陰に吸い込まれるように消えている。藩政初期、加賀藩にとって黒部奥山は未知の世界であった。しかし戦国時代佐々成政佐良峠?針ノ木峠越で越中信濃間の最短の間道として黒部奥山は軍事上の要点であった。また加賀白山の領土争いでは幕府の調停によって越前福井藩の領山とされた苦い経験もあり、松本藩との境をなす未知の奥山への重要度を認識していた。そのため加賀藩では慶長3年(1598年)以来、地元の者を召し寄せ聴聞し、役人を派遣して実地調査をさせ、やがて奥山廻りを常設して毎年巡視させた。領民に対しては「御縮り山」として立山参りの正規ルート以外での黒部奥山への立ち入りを禁じた。その後、この奥山廻りは明治3年(1870年)9月の廃止まで続いた。
奥山廻りのはじまり

奥山廻りの調査で最後まで空白だったのは、鷲羽岳周辺や水晶岳雲ノ平黒部五郎岳の周辺ではなく後立山連峰の周辺であった。むしろ北アルプスの最奥地といわれる三俣蓮華岳周辺は、三国境としての重要地点で詳細に調査された。後立山連峰はその名のごとく越中側から見ると立山の背後にある最奥地の山であり、キレット等のやせ尾根が続いている山稜である。江戸時代初期の黒部奥山廻りの記録には「此辺後立山に至る迄ノ間至険岨ニ而通路相成不申候」とあり、初期の奥山絵図では空白地帯であった。

加賀藩初代藩主前田利家は、慶長3年(1598年)2月に浦山村の百姓伝右衛門を召し寄せて黒部奥山の様子を聴聞している。この時伝右衛門には礼状として前田利家印判状「越中新川郡黒部奥山之儀委敷聞、喜敷候」[2]が下付されている。この伝右衛門は元和年間(1615年から1624年)、越後国浪人数百名が黒部渓谷口の内山村に立て篭もっているのを密訴して大事に至らしめなかった功者といわれる。そして三代目藩主前田利常寛永17年(1640年)12月、この松儀伝右衛門を御下問のため金沢へ召し寄せ、浪人、山賊などが居ればこれを召し捕り訴え出ることを内役として命じた。さらに鏡、扇子、硯等を与え、武士にしか許されなかった乗馬も許可し、役儀の重要なること、その苦労に対する恩賞をも表明した(前田利常印判状[2])。これが奥山廻り御用の始まりである。

承応2年(1653年)には、芦峅寺村十三郎と殿村四郎右衛門が御扶持米20俵で「新川郡山廻り」として命じられ、延宝元年(1673年)には、芦峅寺村五左衛門、吉野喜右衛門、内山村三郎左衛門が「七木御縮り」のために御代官分を役料として「山廻り役」を命じられた。

▲下駒ヶ嶽犬岳▲▲雪倉岳▲上駒ヶ嶽▲大蓮花▲硫黄岳▲赤鬼岳▲餓鬼岳▲後立山剱岳▲▲別山大日岳▲▲立山針ノ木岳▲▲折岳薬師岳▲赤牛岳▲▲真砂岳中岳劔▲▲火打ヶ岳▲竜池岳三ツ又岳▲▲鷲羽ヶ岳大平村芦峅村有峰村下奥山上奥山黒部川針ノ木峠(札立場)佐良峠越後越中信濃飛騨
主な奥山見分ルート。(山名とルートは絵図より抜粋)
※表示環境によっては文字がずれることがあります。

見分ルート

加賀藩御定書によれば奥山は新川郡立山と白山渓谷より奥の地域を指している。黒部奥山に限ると後立山(鹿島槍ヶ岳)を境に北部を下奥山、南部を上奥山と呼んでいる。見分ルートの主な変遷を下に記す。『上新川郡奥山巡廻道筋之内見取絵圖』
天保10年(1839)以降、原作者不明
富山県立図書館蔵
下奥山

越中と信濃、越後との国境をなす。

延宝6年(
1678年)、大平村(現在の富山県下新川郡朝日町)から境川沿いに下駒ヶ嶽を往復。

享保11年(1726年)、大平村から下駒ヶ嶽へ登って越後との境目を見分し、次に黒部川から上駒ヶ嶽へ登り、鑓ヶ嶽へ登って信濃との境目見分。

寛政年間(1789年から1800年)に祖母谷に明礬が発見されるとルートが拡大した。

天保14年(1843年)、大平村からソヨナギノ丸山。蛭谷村(同)から北又谷、猫又谷、スノコ峰、祖母谷から餓鬼谷、後立山谷、猫又谷、蓮華山で境目見分。

弘化年間(1844年から1847年)になると境相立により境目見分の必要性は薄れたため、御林山の管理においては蓮華山までとして、後立山方面はその地形の険しさから必要に応じて見回るようになっていった。
上奥山

越中と信濃、飛騨との国境をなす。

天和2年(1682年)、芦峅寺村(現在の富山県中新川郡立山町)から室堂、御前谷、黒部川までを往復。

元禄10年(1697年)から14年までは幕府から提出を求められた国絵図を作成するために、奥山廻りには特別に絵図御用が命じられており、山名、川名、閑道、方位、里程などを詳しく収集して報告している。詳細は「江戸幕府の地図事業#元禄日本図」を参照

元禄10年(1697年)、芦峅寺村から室堂、針ノ木峠へ至り、後立山方面の信濃との境目見分。有峰村(現在の富山県富山市有峰)から薬師ヶ嶽に登り鷲ヶ羽獄(三俣蓮華岳)方面の飛騨の境目見分。

寛保年間(1741年から1743年)頃から上奥山での盗伐事件が相次ぐようになりルートが拡大した。

享和3年(1803年)、針ノ木峠、後立山南谷を登って信濃との境目見分。火打ヶ嶽から中嶽へ向かい盗伐小屋を発見、焼き払い処分。鷲羽ヶ嶽に登って三国境を見分。有峰村に出ている。

文化7年(1810年)、上記と同様のルートだが温谷から中嶽へのルートが困難で、これを避けるために針ノ木谷奥の南又を信濃側へ越境して真砂嶽へ登っている。

天保9年(1838年)に松本藩との間で境相立が取り決められ、松本藩による番所の設置によって盗伐問題は決着し、ほとんど盗伐事件はなくなった。

見分パーティ

奥山廻りの実施は登山期の6月から8月に、通常は上奥山と下奥山で隔年に行われた。この実施者としては御用番から奥山廻り御用を申し渡された横目が派遣する横目足軽を選び、この横目足軽2名と御算用場から通達を受けた郡奉行から、奥山廻りあるいは奥山廻り加役として山廻り足軽数名とその年の山廻り役2名から4名があてられ、これに人足が10名程度加えられた。もちろん人数は随時変えられていて最初期には全体で数名程度だったものが、盗伐事件が続発するようになると杣人足が30人にもなり総勢40名にもなることがあった。

これら奥山廻り御用のパーティが入山しての行動は長い時には20日間にも及び、大量の食糧などを携行し、決まった場所に小屋掛したり野宿などで夜を過ごし、渡渉できない場所では橋を掛けたりといった大変なものであった。しかし困難な登山の間にも珍味である岩茸を採取したり岩魚を釣ったり雷鳥を捕らえて料理している。

嘉永2年(1849年)、上奥山の温谷での野宿では横目方を招いて酒宴を開いている。このときの献立の記録では

吸物 鯨味噌 茄子相添

取肴 いなたきりめ 海老煎付 鮎の鮓(すし) 岩魚ノ作身(刺身)

酢物 岩茸ニ焼麩 はり生姜

飯代りひやし素麺 したし鰹だし 岩茸相添

と豪華なものであった[3]
盗伐事件の取り締まり『御縮山之圖』
文化11年(1814)、原作者不明
富山県立図書館蔵『新川御郡大綱色分絵圖』
江戸末期、原作者不明
富山県立図書館蔵

奥山廻りの初期の目的は国境警備であったが、しだいに世の中が安定してくると木材盗伐や密貿易の取り締まりに重点が変わっていった。この黒部奥山へしきりに出没したのは信州の杣であった。奥山廻りらはこの取り締まりに難儀した。杣たちは奥山廻りが近づくといち早く逃げてしまう。逃げ去った後の盗伐現場で奥山廻りは、盗伐小屋を焼き払い伐採道具を没収して木材を押収した。しかし木材を越中側へ運び出すのは困難であるため、仕方なく信州の木材業者に呼びかけて払い下げたが、足元を見られて安く買い叩かれた。しかしその木材業者こそ杣たちの元締めであった。

正徳2年(1712年)7月、記録に残る最も古い大規模な盗伐事件が起きている。それは針ノ木谷で起きた事件で奥山廻りが現場を発見して取り押さえた。


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