奥尻郡(おくしりぐん)は、北海道(後志国)檜山振興局の郡。人口2,242人、面積142.99km²、人口密度15.7人/km²。(2024年4月30日、住民基本台帳人口)
以下の1町を含む。 1879年(明治12年)に行政区画として発足して以来、郡域は上記1町のまま変更されていない。 日本書紀に記された、斉明天皇6年3月に阿倍比羅夫が粛慎の砦を陥落させた弊賂弁嶋は、現在の奥尻島にあたるといわれている(粛慎の本拠地、樺太とする説もある)。
奥尻町(おくしりちょう)
郡域
歴史
郡発足までの沿革
江戸時代後期の文化4年には、奥尻郡域は天領とされた。文政4年には松前藩の元に戻されたものの、安政2年再び天領となり津軽藩が警固をおこなった。戊辰戦争(箱館戦争)終結直後の1869年8月15日、大宝律令の国郡里制を踏襲して奥尻郡が置かれた。
郡発足以降の沿革北海道一・二級町村制施行時の奥尻郡の町村(7.奥尻村 青:区域が発足時と同じ町村)
明治2年
8月15日(1869年9月20日) - 北海道で国郡里制が施行され、後志国および奥尻郡が設置される。開拓使が管轄。
8月28日(1869年10月3日) - 福岡藩の領地となる(北海道の分領支配)。
明治4年8月20日(1871年10月4日) - 廃藩置県により再び全域が開拓使の管轄となる。
明治5年
4月9日(1872年5月15日) - 全国一律に戸長・副戸長を設置(大区小区制)。
10月10日(1872年11月10日) - 4月に設置された区を大区と改称し、その下に旧来の町村をいくつかまとめて小区を設置(大区小区制)。
明治9年(1876年)9月 - 従来開拓使において随意定めた大小区画を廃し、新たに全道を30の大区に分ち、大区の下に166の小区を設けた。
明治9年の大区小区
第8大区
4小区 : 釣懸村、赤石村、薬師村、青苗村
明治12年(1879年)7月23日 - 郡区町村編制法の北海道での施行により、行政区画としての奥尻郡が発足。
明治13年(1880年)1月 - 久遠郡外三郡役所(久遠奥尻太櫓瀬棚郡役所)の管轄となる。
明治15年(1882年)2月8日 - 廃使置県により函館県の管轄となる。
明治19年(1886年)
1月26日 - 廃県置庁により北海道庁函館支庁の管轄となる。
12月 - 函館支庁が廃止。
明治24年(1891年)3月 - 檜山郡外五郡役所(檜山爾志久遠奥尻太櫓瀬棚郡役所)の管轄となる。
明治30年(1897年)11月5日 - 郡役所が廃止され、檜山支庁の管轄となる。
明治39年(1906年)4月1日 - 北海道二級町村制の施行により、釣懸村、赤石村、薬師村、青苗村の区域をもって奥尻村(二級村)が発足。