奥尻郡
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .pathnavbox{clear:both;border:1px outset #eef;padding:0.3em 0.6em;margin:0 0 0.5em 0;background-color:#eef;font-size:90%}.mw-parser-output .pathnavbox ul{list-style:none none;margin-top:0;margin-bottom:0}.mw-parser-output .pathnavbox>ul{margin:0}.mw-parser-output .pathnavbox ul li{margin:0}

令制国一覧 > 北海道 (令制) > 後志国 > 奥尻郡

日本 > 北海道 > 檜山振興局 > 奥尻郡
北海道奥尻郡の位置

奥尻郡(おくしりぐん)は、北海道後志国檜山振興局人口2,242人、面積142.99km²、人口密度15.7人/km²。(2024年4月30日、住民基本台帳人口)

以下の1町を含む。

奥尻町(おくしりちょう)

郡域

1879年明治12年)に行政区画として発足して以来、郡域は上記1町のまま変更されていない。
歴史
郡発足までの沿革

日本書紀に記された、斉明天皇6年3月に阿倍比羅夫粛慎の砦を陥落させた弊賂弁嶋は、現在の奥尻島にあたるといわれている(粛慎の本拠地、樺太とする説もある)。

室町時代には、享徳3年8月28日に松前藩祖・武田信広公が漂着。文明元年6月5日、若狭国の僧随芳が草庵を建立。これは延徳2年大館(渡島国津軽郡松前)に移り松前山法源寺となった。弘治元年7月、上杉謙信の臣宇田遠江守師長が従者3名と漂着。

江戸時代、奥尻郡域は和人地となる。松前藩によってヲコシリ場所が開かれ、元和3年5月、松前山法源寺第4世芳龍が、現在の青苗地区に空谷山大仙寺を建立。寛文7年空谷山大仙寺が松前城下蔵町に移転。安永年間には薬師村(現在の奥尻町字松江)の少彦名神社が創建されている。

江戸時代後期文化4年には、奥尻郡域は天領とされた。文政4年には松前藩の元に戻されたものの、安政2年再び天領となり津軽藩が警固をおこなった。戊辰戦争箱館戦争)終結直後の1869年8月15日大宝律令国郡里制を踏襲して奥尻郡が置かれた。
郡発足以降の沿革北海道一・二級町村制施行時の奥尻郡の町村(7.奥尻村 青:区域が発足時と同じ町村)

明治2年

8月15日1869年9月20日) - 北海道国郡里制が施行され、後志国および奥尻郡が設置される。開拓使が管轄。

8月28日(1869年10月3日) - 福岡藩の領地となる(北海道の分領支配)。


明治4年8月20日(1871年10月4日) - 廃藩置県により再び全域が開拓使の管轄となる。

明治5年

4月9日1872年5月15日) - 全国一律に戸長・副戸長を設置(大区小区制)。

10月10日(1872年11月10日) - 4月に設置された区を大区と改称し、その下に旧来の町村をいくつかまとめて小区を設置(大区小区制)。


明治9年(1876年)9月 - 従来開拓使において随意定めた大小区画を廃し、新たに全道を30の大区に分ち、大区の下に166の小区を設けた。
明治9年の大区小区

第8大区

4小区 : 釣懸村、赤石村、薬師村、青苗村



明治12年(1879年7月23日 - 郡区町村編制法の北海道での施行により、行政区画としての奥尻郡が発足。

明治13年(1880年)1月 - 久遠郡外三郡役所(久遠奥尻太櫓瀬棚郡役所)の管轄となる。

明治15年(1882年2月8日 - 廃使置県により函館県の管轄となる。

明治19年(1886年

1月26日 - 廃県置庁により北海道庁函館支庁の管轄となる。

12月 - 函館支庁が廃止。


明治24年(1891年)3月 - 檜山郡外五郡役所(檜山爾志久遠奥尻太櫓瀬棚郡役所)の管轄となる。

明治30年(1897年11月5日 - 郡役所が廃止され、檜山支庁の管轄となる。

明治39年(1906年4月1日 - 北海道二級町村制の施行により、釣懸村、赤石村、薬師村、青苗村の区域をもって奥尻村(二級村)が発足。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:28 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef