奥宮健之
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出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2014年7月)

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生誕1857年12月27日
日本 土佐国土佐郡布師田村
(現:高知県高知市布師田)
死没 (1911-01-24) 1911年1月24日(53歳没)
大日本帝国 東京市牛込区市谷富久町
(現:東京都新宿区富久町)
東京監獄
罪名大逆罪
刑罰死刑

動機天皇制廃止

奥宮 健之(おくのみや けんし、1857年安政4年)12月27日(旧暦11月12日) - 1911年明治44年)1月24日)は、日本社会運動家

自由民権運動で活躍し、幸徳事件大逆事件)で処刑された12名の1人だった。
経歴

1857年安政4年)12月27日(旧暦11月12日)に土佐国土佐郡布師田村(現:高知県高知市布師田)で生まれる。父親の奥宮慥斎(1811 - 1877)は土佐藩のなかでも一流の陽明学者で、山内容堂侍講だった。健之は11?12歳で東京へ向かい、三菱へ入社したが自由党が結党されると間もなく退職して入党した。党内では馬場辰猪と共に「土佐の二俊秀」と称された。

1882年(明治15年)に嚶鳴会と対決するものとして、馬場・大石正巳・西村玄道らと「国友会」を結成した。東京・浅草の「井村楼」での演説のために東京府下での演説が禁じられたため、講釈師の鑑札を受けて芸名を「先醒堂覚明」として出演し、講談に託して自由民権を説いたが、集会条例違反容疑で席亭の主人と共に罰せられ、軽禁錮1ヶ月に処された。出獄した健之は人力車夫を糾合する「車会党」を結成する。これは東京馬車鉄道の敷設で失業した車夫に着目し、竹内綱が抱えていた三浦亀吉という親分を説得・周旋させて、集まった者にはいくらでもを飲ませると書いたビラをまき、1882年(明治15年)10月4日に神田明神の境内で「人力車夫大懇親会」を開催した。懇親会には300名あまりが集まり、さらに1?2回ほどが開催されたが当の健之は巡査に暴行したとして石川島監獄に収容されており、懇親会には一度も出席できなかった。同年12月7日には「車会党規則」が発表されて活動が本格化すると思われたが、1883年(明治16年)9月24日に結社の禁止を言い渡された。健之も投獄され、車会党は自然消滅となった。

健之は1883年(明治16年)に出獄して鹿児島へ赴くが、その途中で立ち寄った名古屋名古屋事件に関与した。愛知県内の自由党員の一部が板垣退助の演説、星亨の演説に煽りを受け、政府転覆の陰謀に狂奔していた。その計画の軍資金を得ようと富豪強奪の強行に出たのは1884年(明治17年)8月で、目的を達成することは出来ず、帰路で警察官と衝突を繰り広げ、何人かを斬り付けた。また10月には、健之が自由党大会に参加するために大阪へ向かっていたところ、同志が大草村役場に斬り込んで国税を強奪した。この事件で関与した一味は次々に検挙され、事件を知った健之は官憲の目を逃れつつ各地を転々としていたが、1885年(明治18年)1月に東京で検挙され、名古屋へ護送された。

1887年(明治20年)5月に判決が言い渡されたが一味の国事犯として扱われず、強盗殺人事件として直接関与した数名が死刑となり、健之は無期徒刑となった。健之は小菅集治監(現:東京拘置所)、宮城集治監を経て1889年(明治22年)秋に北海道の樺戸集治監へ移送された。


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