奚(けい、?音:X?)は、4世紀から10世紀頃までモンゴル高原東部から中国東北部にあるラオハムレン
(老哈河、遼河の源流)流域とシラムレン(遼河の支流)流域に存在していた遊牧民族。初めは庫莫奚(こまくけい、Qu(o)ma?-?ay、Kumo x?)と呼ばれていた[1]。『ホショ・ツァイダム碑文』(オルホン碑文)では、[2](Ttbi:Tatabi、タタビ)と記されている。中国の史書[3]に拠ると、庫莫奚および奚の起源は匈奴系鮮卑の宇文部であるという[4]。
344年2月、前燕の慕容?が宇文部大人の逸豆帰を攻撃し、逸豆帰は慕容?に敗れて遠く漠北に逃れ、そのまま高句麗に逃げた。この時、松漠の間に逃れた勢力が庫莫奚となった。 登国3年(388年)、北魏の道武帝(在位:398年 - 409年)の親征を受け、庫莫奚は弱洛水の南で大敗し、4部落と馬・牛・羊・豕などの家畜10余万を失った。 それから10数年間、庫莫奚やその他の東夷諸族は次第に勢力を増していったが、北魏が遼海(渤海)を開き、和龍を置くと、東夷諸族は懼れて各々方物を献上した。 文成帝(在位:452年 - 465年)の初め、庫莫奚は北魏に遣使を送って朝貢した。 太和22年(498年)、庫莫奚が定州に入寇したため、北魏は営州・燕州・幽州の兵数千でこれを撃退した。奚が後に帰順すると、毎回入塞して交易することを求めた。 北周の時代、突厥は木汗可汗(在位:553年 - 572年)のもと、柔然を滅ぼして中央ユーラシアを掌握した。その頃、庫莫奚は5つに分裂し、辱?主部・莫賀弗部・契箇部・木昆部・室得部の5部となっており、突厥に附いて部族ごとに俟斤(イルキン:Irkin)[5]一人が置かれた。なかでも阿薈氏が最豪帥となり、5部は皆その節度を受ける。こうして突厥の傘に入り、隣国の契丹と何度か戦った。 [6] 隋代以降、庫莫奚は単に奚と呼ばれるようになり、突厥に属しながらも隋などの中華王朝にも朝貢をした。 中国で隋に変わって唐が成立すると、奚は武徳年間(618年 - 626年)に朝貢をした。 貞観18年(644年)7月、営州都督の張倹は幽州・営州の兵および契丹と奚の兵を率いて高句麗を征伐した。この時、奚大酋の蘇支は従軍して戦功があった。 貞観22年(648年)、太宗によって北方遊牧騎馬民族がすべて唐の支配下に入れられると(羈縻政策)、奚の酋長である可度者はその所部を率いて唐に内属したので、饒楽都督府
北朝の時代
隋唐時代
顕慶(656年 - 661年)初め、可度者は唐より右監門大将軍を授かったが、その後亡くなったため、奚は唐に叛いた。
顕慶5年(660年)、唐は定襄都督の阿史徳枢賓、左武候将軍の延陀梯真、居延州都督の李含珠を冷?道行軍総管とし、龍朔元年(661年)、尚書右丞の崔余慶に奚を討たせると、奚が懼れて降伏してきたので、奚王の匹帝を斬首した。
武周の万歳通天年間(696年 - 697年)、契丹が叛くと奚も叛いて東突厥(第二可汗国)に属し、両国は常に遞為表裏をなしたため、「両蕃」と号した。
景雲元年(710年)、首領の李大輔は遣使を送って朝貢したので、睿宗はこれに喜び、使者を厚くもてなした。
延和元年(712年)、左羽林将軍・検校幽州大都督の孫倹は12万の兵を率いて奚の部落を襲撃した。しかし、前軍左驍衛将軍の李楷洛らが李大輔と戦って敗れたため、李大輔は孫倹と副将の周以悌を捕えて東突厥可汗の默啜の所へ送り、殺害させた。
開元3年(715年)、李大輔は大臣の粤蘇梅落を唐へ遣わして請降したので、その地に饒楽州が置かれ、唐によって李大輔は饒楽郡王に封ぜられ、左金吾員外大将軍・饒楽州都督を拝命した。
開元5年(717年)、李大輔は契丹首領・松漠郡王の李失活と柳城の旧置営州都督府に依ることを請願し、唐の許可を得た。この年、李大輔が唐に入朝したため、玄宗は詔で従外甥の娘である辛氏を固安公主に封じて李大輔に娶らせた。
開元8年(720年)、李大輔は兵を率いて契丹救援に向かった際に戦死したため、その弟の魯蘇が立った。
開元10年(722年)、魯蘇が唐に入朝したため、玄宗は詔でその兄に饒楽郡王・右金吾員外大将軍兼保塞軍経略大使を襲名させ、レビラト婚により固安公主を妻とさせた。しかし、固安公主は嫡母と和めず離婚したため、玄宗はふたたび成安公主の娘の韋氏を東光公主として妻とさせた。