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この項目では、民族としての契丹について説明しています。契丹民族が建国した国家・契丹については「遼」を、ヨーロッパ、イスラーム世界で中国を指して使われる呼称については「キタイ (地理的呼称)」を、キプチャク部のキタイについては「キタイ (キプチャク部)」をご覧ください。
宋代に描かれた契丹人の絵
契丹(きったん、キタン、キタイ、.mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: Qid?n、英:Khitan)は、現在のモンゴル、中国東北部、極東ロシアに相当する地域に4世紀頃から居住していた北東アジアの歴史上の民族である。遊牧民であったとされている。
契丹人は、原モンゴル人から鮮卑人を経た子孫であり[1][2]、モンゴル語族の汎モンゴル語であり現在は消滅している契丹語を話した[3]。契丹人は、シベリア、モンゴル、中国北部の広大な地域を支配した遼王朝(916?1125)を建国し、その指導者となった。遼朝の契丹族は、契丹小字と契丹大字の2種類の独立した文字を使っていた。
1125年、金の侵攻により遼王朝が滅亡すると、多くの契丹が耶律大石の一派に従って西へ向かい、中央アジアにカラ・キタイ(西遼王朝)を建国した。このほか、中国の北遼、東遼、後遼、ペルシャのクトゥルグ=ハニード朝なども契丹が建国した政権である。現在、中国東北部の少数民族として認められているダウール族は、契丹人の遺伝的子孫である[4]。
中国の歴史的名称である「キタイ」は、契丹という言葉に由来している。
歴史
契丹の起源と黎明期)の東にある馬孟山(馬鞍山)から白馬に乗った神人が、?河(西拉木倫河)西岸の平地松林から青い牛の牛車に乗った天女と、両河の合流地点にある木吐山で出会い結婚して8人の子を儲け、契丹古八部の祖先になったとされ、中国の歴史教科書にも紹介されている。また、永州木吐山に始祖・奇首可汗[注釈 2]の祖廟があり、可敦(皇后)と先の八子の像が在るとする。
契丹の起源は拓跋部ではない宇文部から古くに分かれた東部鮮卑の後裔で、庫莫奚もしくは室韋と同系になると考えられている[注釈 3]。『新唐書』では、かつて匈奴に破られて逃れてきた東胡の子孫とする。『魏書』、『北史』、『隋書』によると、宇文部であった奚(庫莫奚)ともつながりがあり、ともに4世紀半ばに前燕の慕容?に敗北し、松漠の間(今の赤峰地区)に逃れて居住し、388年に北魏に敗れ、奚と分離し、その東方に暮らすようになったとされる。5世紀頃の東夷諸国と契丹の位置。6世紀頃の東夷諸国と契丹の位置。
5世紀に至って人口が増え、北魏の北方を侵すようになった。5世紀半ばから、北魏に朝貢し、交市を行うようになった。479年、柔然と組んだ高句麗の侵略を怖れ、北魏に来降し、白狼水(今の大凌河)の東岸一帯に移り住んだ。この時の人口は、1万余人であったと伝えられる。6世紀に入っても、北魏への朝貢は絶えなかった。553年には、北斉の国境を侵して文宣帝に敗北し、部族の大部分が捕らえられて、諸州に分置される。残った部族もまた、突厥に攻められ、高句麗を頼っていった。
この時代の契丹は、悉万丹・阿大何(大賀)・具伏弗・郁羽陵・日連(遙輦)・匹黎爾・吐六干・羽真侯の古八部から構成され、常には連盟していなかったとされる。 6世紀末?8世紀には、西は老哈河から東は遼河・南は朝陽までの地域に住み、北斉に従属していた9つの州に居住する大賀氏八部(構成部族)[注釈 4]が連盟を結び、?使部から出た大賀氏を君長に戴いていた。戦争を行う時は、八部が合議して行い、独断で行うことはできない合議体制であった。狩猟は部別に行われたが、戦争は合同で行ったと伝えられる。7世紀後半の東夷諸国と唐の羈縻(きび)支配。 当初は、突厥に臣事し、八部の族長は俟斤(イルキン)の官に任じられる。584年から585年にかけて、隋に来降する。586年、部族同士の争いが行われ、隋の文帝(楊堅)は使者を使わしてこれを責める。そのため、契丹は隋に罪を謝した。この後、高句麗に従属していた曲拠部-玄州、突厥に従属していた内稽部-威州の合わせて10部族が隋へ帰順する。隋は突厥との友好のため、彼らを故地に帰そうとしたが、これを拒否し、北に移って遊牧する。突厥は沙鉢略可汗の時に人を遣わして統治したが、契丹はこれを殺して逃れ、611年に改めて隋に朝貢する。618年、隋末唐初の戦乱の際に、中国を侵略し、619年には平州を攻める。621年、契丹別部の酋帥である孫敖曹が唐に使いを遣わし、附く。623年、唐の李淵に使者を送り、貢納を行う。628年には、君長の摩会が部族を率いて、唐に来降する。突厥の頡利可汗は引き渡しを求めたが、唐の李世民はこれを拒絶した。645年、唐の高句麗攻撃に参加し、その帰路に、君長である大賀氏の窟哥が左武衛将軍に任じられる。648年には、唐に内属し、松漠都督および使持節10州諸軍事に任じられ、国姓の李氏をもらう。この頃には、突厥から来降した松漠部-昌州・沃州の両州と?使部から別れた乙失革部-帯州を加え12部となり、勝兵4万余を擁して羈縻政策の管理下へ置かれた。 窟哥の死後、松漠都督の阿卜固が奚と結んで反乱を起こすが、660年、唐の行軍総管である阿史徳枢賓に敗れて鎮圧された。窟哥の孫である李尽忠が松漠都督となる。
大賀氏の時代
714年(715年?)、契丹首領の李失活(李尽忠の従父弟)が部族を率いて、玄宗期の唐に降伏する。李失活は改めて、松漠都督となり、松漠郡王に任じられる。李失活は長安に出向き、717年、宗室外の女子である永楽公主の降嫁を受ける。718年、李失活が死去し、その従父弟の娑固が後を継いだ。娑固は、大臣であり、驍勇で衆心を得ていた可突干と不仲となり、可突干に攻められ、営州まで逃亡する。唐の営州都督は、娑固と奚王・李大輔および唐軍の精鋭500名に可突干を攻撃させるが、娑固・李大輔は殺され、唐軍の将は捕らえられる。営州都督は西に逃亡した。可突干は、娑固の従父弟にあたる鬱干を立て、唐に罪を乞うたので、鬱干が松漠都督に任じられた。
722年、鬱干は長安に出向き、降嫁を乞うたので、松漠郡王に封じられ、燕郡公主が降嫁する。