契丹文字
契丹小字七言絶句銅鏡[1]
類型:未解読文字
言語:契丹語
発明者:耶律阿保機
時期:920年頃-12世紀頃
Unicode範囲:
契丹大字:割り当てなし契丹小字:U+18B00-U+18CD5
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音素文字の歴史
青銅器時代中期-原シナイ
前19-15世紀
ウガリット 前15世紀
原カナン 前14世紀
フェニキア 前11世紀
古ヘブライ 前10世紀
サマリア 前6世紀
アラム 前9世紀
ブラーフミー 前6世紀
(インド系)
チベット 7世紀
クメール 7世紀
ジャワ 9世紀
他多数
ヘブライ 前3世紀
シリア 前2世紀
ナバテア 前2世紀
アラビア 4世紀
ペルシア 7世紀
ウルドゥ 11世紀
ターナ 18世紀
パフラヴィ 前2世紀
アヴェスタ 4世紀
ソグド
突厥 5世紀
ウイグル 8世紀
(契丹小字 10世紀)
(女真小字 12世紀)
モンゴル 13世紀
満洲 16世紀
シベ 20世紀
トド 17世紀
ワキンダラー 20世紀
ギリシア 前9世紀
エトルリア 前8世紀
ラテン 前7世紀
ルーン 2世紀
オガム 4世紀
ゴート 4世紀
コプト 300年
グルジア 4世紀
アルメニア 405年
グラゴル 862年
キリル 10世紀
イベリア 前6世紀
南アラビア 前9世紀
ゲエズ 前5–6世紀
メロエ 前3世紀
カナダ先住民 1840年
注音 1913年
契丹大字(北大王墓誌)
契丹文字(きったんもじ)は、10世紀から12世紀にかけて、現在の中国北部とモンゴル高原にあたる地域を支配していた半農半牧民族の契丹(キタイ)人によって使用された文字。遼の太祖耶律阿保機が制定したとされる表意文字の契丹大字と、太祖の弟であった耶律迭剌が制定したとされる表音文字の契丹小字の2種類の文字が存在する。
漢文との2言語対照資料があるにもかかわらず、現在のところほとんど解読されていない。
契丹大字と契丹小字
契丹大字詳細は「契丹大字」および「en:Khitan large script」を参照
920年(神冊5年)1月から耶律阿保機が創案を開始し、同年9月に完成、公布したとされる[2]。契丹大字は漢字を参考、借用して作った表意文字であり、これまでに異体字を含めて1600から1700字程度が知られているが、そのうち、読み方が推定されているのは188字しかない[3]。
契丹大字は、数詞や日付表記などに明らかに漢字を参考にしたと思われる文字があり、それらはおそらく漢字を元に改変されたものと思われるが、漢字との関連が見えない文字も多く、それらの文字の起源に関しては不明である。
2010年にロシア科学アカデミーが所蔵する、出所不明かつ未解読の未知の文字で書かれていることで知られたNova N 176写本(英語版)が契丹大字の筆記体で書かれていることが判明した。
契丹大字墓誌[4]
痕得隠太傅墓誌(960年〈遼穆宗應暦10年〉5月28日)
耶律延寧墓誌(986年〈遼聖宗統和4年〉11月18日)
霞里隱大王墓誌(1041年〈遼興宗重熙10年〉10月8日)
可汗横帳孟父房涅鄰劉家奴詳穩墓誌碑銘(1051年〈遼興宗重熙20年〉10月22日)
奪里不里郎君位誌銘(1081年〈遼道宗大康7年〉3月15日)
故撻不衍觀音太師墓誌(1084年〈遼道宗大康10年〉6月5日)
フリジ契丹國六部遙里撒里必石烈阿縵太師墓誌(1089年〈遼道宗大安5年〉12月25日)
蔑古乃乙辛隱袍里宰相勅葬墓誌(1090年〈遼道宗大安6年〉3月19日)
大中央フリジ契丹國故西北路招討訛都宛太傅妻永寧郡公主位誌銘(1092年〈遼道宗大安8年〉3月2日)
大中央フリジ國興隱太師妻夫人墓誌碑銘(1100年〈遼道宗寿昌6年〉4月1日)
大フリジ國耶律撒班枢密齊王位誌銘(1108年〈遼天祚帝乾統8年〉5月某日)
大中央契丹國.mw-parser-output .jis2004font{font-family:"源ノ角ゴシック JP Normal","源ノ角ゴシック JP","Source Han Sans Normal","Source Han Sans","NotoSansJP-DemiLight","Noto Sans CJK JP DemiLight","ヒラギノ角ゴ ProN W3","ヒラギノ角ゴ ProN","Hiragino Kaku Gothic ProN","メイリオ",Meiryo,"新ゴ Pr6N R","A-OTF 新ゴ Pr6N R","小塚ゴシック Pr6N M","IPAexゴシック","Takaoゴシック","XANO明朝U32","XANO明朝","和田研中丸ゴシック2004絵文字","和田研中丸ゴシック2004ARIB","和田研中丸ゴシック2004P4","和田研細丸ゴシック2004絵文字","和田研細丸ゴシック2004ARIB","和田研細丸ゴシック2004P4","和田研細丸ゴシックProN",YOzFont04,"IPA Pゴシック","Yu Gothic UI","Meiryo UI","MS Pゴシック";font-feature-settings:"jp04"1}タ隱司仲父房習涅副使墓誌(1114年〈遼天祚帝天慶4年〉3月25日)
大金國先父郎君墓誌銘(1176年〈金世宗大定16年〉8月11日)
契丹小字詳細は「契丹小字」および「en:Khitan small script」を参照
耶律阿保機の弟である耶律迭剌が、多音節言語である契丹語の表記には不便だった契丹大字に代わり、ウイグルの使者から学んだウイグル文字の表記を参考にして創作したとされる[5]。公布された年代ははっきりしていないが、924年(天賛3年)頃ではないかと考えられている。1125年に遼が滅亡すると次第に廃れていくが、金が1191年(明昌2年)に契丹文字使用禁止の法令を出しており、この頃まではまだ一部で使用されていたと思われる。
契丹小字は6割の読み方が推定されているものの、全体的にみて、契丹語の解読は到底十分とは言えないという[3]。
契丹小字の文字要素の組み合わせ方は次のような方法を取っている[要出典]。
2個の場合:左から右へ組み合わせるものと、上から下へ組み合わせるものがある。
3個の場合:左上から右上へ、次いで下へ
4個の場合:左上から右上へ、次いで左下から右下へ
5個の場合:左上から右上へ、次いで左中央から右中央へ、次いで下へ(4個の下に1個を加えた形)