奉車都尉
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奉車都尉(ほうしゃとい)は、かつて中国で皇帝が乗る馬車をつかさどった官職である[1]。紀元前2世紀に前漢で設けられた。
前漢

武帝のとき、?馬都尉とともに初めて置かれた[1]官秩は比二千石[1]

職務権限は馬車の管理にすぎないが、皇帝の乗り物ゆえに重視された。武帝に仕えた蘇嘉は、車を破損した責任をとって自殺した[2]。前漢の奉車都尉に霍氏が多いのは霍去病霍光、金氏が多いのは金日?と、皇帝が個人的に信頼した者の子弟が任命されたからである。
後漢

後漢でも比二千石で定員なし[3]。あるいは3人[4]
奉車都尉の人物
前漢

霍?
- 武帝の元封元年(紀元前110年)死[5]

霍光 - 武帝後元2年(紀元前87年)6月見[6]、同年2月まで[7]

蘇嘉 - 武帝(在位紀元前141年 - 紀元前87年)のとき以降[8]

金賞 - 昭帝(在位紀元前87年 - 紀元前74年)のとき[9]

金弘 - 宣帝(在位紀元前74年 - 紀元前48年)のとき[10]

霍山 - 宣帝地節2年(紀元前68年)以前に任、4年(紀元前66年)免。

金敞 - 成帝の即位(紀元前33年)後に任[11]河平4年(紀元前25年)まで[12]

班伯 - 成帝(在位紀元前33年 - 紀元前7年)のとき[13]

金渉 - 哀帝の即位(紀元前7年)直後[14]

劉? - 哀帝(在位紀元前7年 - 紀元前1年)のとき[15]

甄邯 - 平帝元寿2年(紀元前1年)任[16]元始元年(1年)まで[17]

脚注^ a b c 『漢書』巻19上、百官公卿表第7上。『『漢書』百官公卿表訳注』148頁。
^ 『漢書』巻54、李広蘇建伝第24。ちくま学芸文庫『漢書』5の236頁。
^ 司馬彪『続漢書』百官志二。早稲田文庫『後漢書』志2の459頁。
^ 司馬彪『続漢書』百官志二の劉昭注。早稲田文庫『後漢書』志2の460頁注2。
^ 『漢書』巻55、衛青霍去病伝第25。ちくま学芸文庫『漢書』5の267頁。
^ 『漢書』巻6、武帝紀第6、後元2年夏6月。ちくま学芸文庫『漢書』1の200頁。
^ 『漢書』巻19下、百官公卿表第7下。『『漢書』百官公卿表訳注』207頁。2月に奉車都尉から大司馬大将軍に転じたと「百官公卿表」が書くのに、武帝紀には6月に奉車都尉の霍光が謀反を阻止したとあり、矛盾する。
^ 『漢書』巻54、李広蘇建伝第24。ちくま学芸文庫『漢書』5の231頁、236頁。
^ 『漢書』巻68、霍光金日?伝第38。ちくま学芸文庫『漢書』6の150頁。
^ 『史記』巻20、建元以来侯者年表第8、?。
^ 『漢書』巻68、霍光金日?伝第38。ちくま学芸文庫『漢書』6の151頁。
^ 『漢書』巻19下、百官公卿表第7下。『『漢書』百官公卿表訳注』214頁。
^ 『漢書』巻100上、叙伝第70上。ちくま学芸文庫『漢書』8の488頁。
^ 『漢書』巻68、霍光金日?伝第38。
^ 『漢書』巻30、芸文志第10、序(ちくま学芸文庫『漢書』3の514頁)。巻36、楚元王伝第6(ちくま4の218頁)。巻75、?両夏侯京翼李伝第45(ちくま6の439頁)。巻88、儒林伝第58(ちくま7の377頁)。
^ 『漢書』巻99上、王莽伝上。ちくま学芸文庫『漢書』8の279頁。
^ 『漢書』巻19下、百官公卿表第7下。『『漢書』百官公卿表訳注』221頁。

参考文献

班固著、『漢書

小竹武夫訳『漢書』1から8、筑摩書房、ちくま学芸文庫、1998年。

大庭脩監修、漢書百官公卿表研究会『『漢書』百官公卿表訳注』、朋友書店、2014年。


司馬彪続漢書』(范曄『後漢書』に合わさる)

渡邉義浩訳、劉昭注『後漢書』志一、二(早稲田文庫)、早稲田大学出版部、2023年、2024年。


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