奈良電気鉄道
種類株式会社
本社所在地 日本
京都府京都市伏見区南御香宮門前町184[1]
設立1925年(大正14年)5月6日[1]
業種鉄軌道業
事業内容旅客鉄道事業、バス事業、浄水供給、不動産 他[1]
代表者社長 福井国男
奈良電気鉄道(ならでんきてつどう)は、現在の近畿日本鉄道(近鉄)京都線に当たる鉄道路線を建設した鉄道会社である。通称は「奈良電」、「奈良電鉄」。沿線で路線バス事業も行っていた。
本社所在地は現在の京都市伏見区、桃山御陵前駅前に位置していた[3]。
京阪電気鉄道と大阪電気軌道(通称:大軌、近鉄の前身)両社及び関係者により大部分の株を引き受け、設立。戦後には京阪・近鉄いずれの路線とも直通運転を行っていたことがあった。
その後、京都・奈良の観光開発を積極的に推し進めていた近鉄が、1963年(昭和38年)にその一環で奈良電気鉄道を合併、その路線を自社の京都線とした。 大正時代も終わりになると、阪神電気鉄道・阪神急行電鉄(阪急)・南海鉄道・京阪電気鉄道・大阪電気軌道(大軌)の通称「大阪五大電鉄」(なお昭和期に阪和電気鉄道と大阪鉄道(大鉄)が加わって、一時は「七大電鉄」となる)により、大阪を中心として各地へ向かう現在の鉄道路線の多くが整備されていた。 京都と奈良の2つの古都を結ぶ鉄道は鉄道省(国鉄)の運営する奈良線が1896年(明治29年)に開通していただけであり、これは蒸気運転であって速度は低く、列車本数も1日12往復と少ないので都市間交通としては不便であった。 第一次世界大戦後の好況(大戦景気)で、京都府(久世)・宇治・綴喜・相楽の各郡を選挙区とする衆議院議員の長田桃蔵を中心に、1919年(大正8年)11月3日、『奈良電気鉄道』として、起点を京阪電気鉄道中書島駅、終点を大阪電気軌道(現:近畿日本鉄道)奈良駅付近とする29.7km・軌間1,435mm・動力直流600Vの電気鉄道による地方鉄道の敷設免許申請が行われた[4]。発起人は50名で、総代は長田桃蔵と太田光?(当時京阪電気鉄道常務)であった[5]。 経由地は起点の京都府紀伊郡向島村(現・京都市伏見区)、伏見町、堀内村、久世郡槇島村、大久保村(現・宇治市)、久津川村・寺田村、富野荘村(現・城陽市)、綴喜郡田辺町・三山木村(現・京田辺市)、相楽郡狛田村、祝園村(現・精華町)、相楽村、木津町(現・木津川市)、奈良県添上郡佐保村(現・奈良市)でそれより終点までは関西鉄道大仏線の廃線敷(1907年(明治40年)廃止)を利用し、奈良に至る計画であった[6]。創立事務所は京都府紀伊郡伏見町に置かれた[6]。 同じく1919年11月10日、奈良県下で電気事業を営んでいた関西水力電気(後の東邦電力)の社長森久兵衛ら15名を発起人とする関西電気軌道が奈良県奈良市から京都府相楽郡木津町(現・木津川市)、綴喜郡田辺町(現・京田辺市)宇治町を経て、京都七条に至る競合路線の申請を提出、奈良電気鉄道と競願となった[7]。 もっとも、第一次世界大戦の好況も続かず、経済状況は次第に悪くなり、京都府と奈良県の推奨もあり、両社協議の結果、奈良電気鉄道が関西電気軌道と合併契約を結び、関西電気軌道は申請を取り下げ、同社発起人会は解散した[7]。 路線敷設免許は、1922年(大正11年)11月16日免許された[7][8]。なお、発起人は1921年(大正12年)9月21日、京都府綴喜郡田辺町から大住村、有智郷村を経て八幡町、京阪電気鉄道八幡町駅に至る支線(八幡支線)の免許も申請し、それも同時に免許されたが[9]、こちらは1925年(大正14年)8月25日付で失効している[10]。 その後、不況の影響もあって発起人は会社設立を一時見合わせると同時に、大阪電気軌道畝傍線(現・橿原線)にも連絡でき、建設キロ程の短縮と、建設費約50万円の節減となることから、起点を京阪電気鉄道宇治線の宇治駅付近、終点を大阪電気軌道大軌西大寺駅(総延長25.4km)に変更した。さらに、起終点でそれぞれ接続する京阪電気鉄道と大阪電気軌道との間で列車の乗り入れについて交渉し、両社とも自社の培養線 路線計画が具体化し、また京阪電気鉄道と大阪電気軌道の賛同も得られたことから、1925年(大正14年)1月17日発起人総会を開催した。創立事務所は、京都府久世郡宇治町(現・宇治市)に置かれた[13]。長田桃蔵と元宇治町長上林楢道を中心に諸準備を進め、路線測量設計は、京阪電気鉄道の田口伊平によって行われた[14]。
経緯
発足前の状況
発足から建設まで
路線敷設免許取得まで
会社設立