この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。
出典検索?: "奈良美智"
なら よしとも
奈良 美智
Yoshitomo Nara at a press conference, Yokohama Art Museum, 2012
生誕 (1959-12-05) 1959年12月5日(64歳)
青森県弘前市
国籍 日本
出身校愛知県立芸術大学大学院
デュッセルドルフ美術アカデミー
職業画家・彫刻家
受賞名古屋市芸術奨励賞(1995年)
ニューヨーク国際センター賞(2010)
芸術選奨文部科学大臣賞(2013)[1]
テンプレートを表示
奈良 美智(なら よしとも、1959年12月5日 - )は、日本青森県弘前市出身の画家[2][3]・彫刻家[3]・現代美術家[4][5]。 1959年青森県弘前市出身[6]。青森県立弘前高等学校卒業[7]。 高卒後は上京する[7]。武蔵野美術大学に入学したものの、学内で何も得るものを感じず、1年で中退する。一年生期末の20歳の頃に一年間有効のヨーロッパの往復チケット買って、約三ヶ月放浪した[6][8]。帰国後の金欠を親に言えず、授業料の安い公立美大を受験した。そして、愛知県立芸術大学、国立東京芸術大学、大分県立芸術短期大学の候補の中で、愛芸に合格した[8]。 1981年、愛知県立芸術大学美術学部美術科油画専攻に入学し、1985年に卒業、1987年に同大学大学院修士課程を修了した[9]。この期間も公立であるため、費用が安く、愛芸二年時に三ヶ月ほどヨーロッパ行っている[8]。 愛芸の学部四年時から[8]、日本の美術系予備校の講師を始めた[6]。河合塾千種校美術研究所講師を経て、1988年の28歳の時に渡独した[6]。 同年、ドイツ国立デュッセルドルフ芸術アカデミー (Kunstakademie Dusseldorf
概要
留学
寿司屋でアルバイトも始めて皿洗いをしていた。この頃から40歳までの期間が最もノッていた期間だったと回想しており、その理由はアルバイトをしながら作品を作るという自分に酔っており、「バイトが終わったら早く帰って絵を描くぞ」という絵を描きたい気持ちを貯める時間が長くなっていたから[11]。
アジア人憎悪も受けたが、奈良は「それだけでその国を憎むようなバカではない。視野を広く持つことが地球で生きるということだ」と述べた[12]。
在学中に大学訪問してきた、あるギャラリーのオーナーの目に留まり、個展を開催するようになった[6]。1993年にマイスターシュウラーを取得して、34歳の時にアカデミーを修了した[10][13]。 アカデミー卒業後も[14]、1994年から日本に拠点を移す2000年8月まで[10]、ドイツケルンのアトリエを拠点に作品を制作した。同年6月には、ケルンからの引っ越し準備をしていた[15]。 1998年、アメリカ合衆国カリフォルニア大学ロサンゼルス校にて非常勤客員教授を3か月間務めた[16]。 1999年頃には、世界的に評価されている現代美術作家となり、ニューヨーク近代美術館 (MoMA) やロサンゼルス現代美術館に作品が所蔵されるなど日本の現代美術の第2世代を代表する1人となった。そして、特徴的な見返りをしている人物をモチーフにしたドローイング・アクリル絵具による絵画で知られるようになった[18][19][20]。 2000年8月、ドイツでの12年間の生活を終え、日本に帰国し、活動拠点を移した[7][10]。 翌2001年、日本における大規模な個展「I DON'T MIND, IF YOU FORGET ME.」を横浜美術館で 開始した[9]。この展覧会をきっかけに、日本国内で急速に人気を獲得していった[6]。横浜で始まった「I DON'T MIND, IF YOU FORGET ME.」は、広島市現代美術館や吉井酒造煉瓦倉庫(弘前市)など国内の4か所の美術館でも開催されることなった[9]。出身地である弘前市の吉井酒造煉瓦倉庫(現在の弘前れんが倉庫美術館)で開催された同展は、合計4,600人のボランティアにより運営された[7]。
アカデミー卒業後
帰国後