奈良市立鼓阪小学校
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奈良市立鼓阪小学校
Tsuzaka elementary school

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国公私立の別公立学校
設置者 奈良市
共学・別学男女共学
学校コードB129210000034
所在地630-8211
奈良県奈良市雑司町97
外部リンク ⇒公式サイト
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
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奈良市立鼓阪小学校(ならしりつ つざか しょうがっこう)は、奈良県奈良市公立小学校。前身の又新舎第一番小学(ゆうしんしゃ―)は、1874年学制の下で当時の奈良町に初めて開校した小学校である。1878年に現在地へ移転し、幾度かの校名変更を経て、1947年に現校名となる。校地は東大寺転害門の内側、奈良公園内にある。
概要

鼓阪小学校は奈良と京都を結ぶ街道[1]沿い、東大寺転害門のすぐ東側に所在する。奈良市立鼓阪北小学校とともに奈良中心部の北の玄関口を校区とする小学校である。鼓阪小学校は1878年に東大寺惣持院に移転後、周辺の土地を順次購入して校地を拡張した。このため、鼓阪小学校の校地は奈良公園内にある。

鼓阪小学校はいわゆる奈良きたまちに所在し、校区内には、東大寺、般若寺北山十八間戸、三笠温泉郷、鶯の滝などの名所があり、観光地域、商店街地域、住宅地域が形成され、歴史ある店舗や古い町並みが残っている。
校名・校地の由来

「鼓阪」は元々「鼓坂」と書く。もとの東大寺八幡宮、現在の手向山八幡神社では旧暦の9月3日に「転害会」と呼ばれる祭礼が転害門を御旅所として行われてきた。この転害会では転害門の東方、正倉院方面へ登る緩やかな坂道が楽人奏楽の場所として利用され、いつしか「鼓坂」と呼ばれるようになったとされる。鎌倉時代になると「鼓坂」は現在の鼓阪小学校の校地にあたる、東大寺尊勝院周辺の地名となった。

東大寺尊勝院は後に東大寺別当となる光智の手により華厳宗・真言宗を兼学する東大寺の子院として946年に建立された。村上天皇御願寺となり、東南院、西室とともに東大寺の三大院家の一つとして学僧を輩出したが、1567年東大寺大仏殿の戦いで聖語蔵を残して焼失した。焼失後、惣持院と名が改められ堂舎が建てられた。

1878年、北御門小学校(きたみかど―)が東大寺惣持院に移転する際、旧東大寺尊勝院の地名「鼓坂」と大坂が大阪へ改名した例に倣い、北御門小学校は「鼓阪小学校」と改名された。

東大寺尊勝院の建物として焼失を免れた聖語蔵は1894年に所蔵の経巻とともに宮内省に献納され、正倉院内に移転した。鼓阪小学校には2基の礎石のみが現存している。
経営方針

1973年に発行された資料を基に記述したため、内容が旧くなっている可能性がある。ただし、公式Webページによると「児童像」は1973年より変わっていない。

1973年に発行された参考文献によると、鼓阪小学校での教育は奈良県や奈良市の学校教育方針・指針に基づくとしている。具体的に設定された児童像、学校像を参考文献より引用する。

児童像明るい健康な子。進んで勉強する子、みんなで支えあう子。

学校像すべての教師が、子らの教育の均等な機会を保障する学校。子らの幸せのために前進する学校。信頼される学校

以上、奈良市立鼓阪小学校編『鼓阪: 創立100年記念誌』奈良市立鼓阪小学校創立百年記念事業推進委員会、1973年、72頁 より引用。

児童像の1番目には、心と体を健康に、命を大切にする人間を育てるという願いが、児童像の2番目には、真理を追究し、実践力のある人間を育てるという願いが、児童像の3番目には人間尊重の精神を持つ人間を育てるという願いがそれぞれ込められている。これら児童像は同和教育を教育課程の全領域の中核に位置付けて、人権を尊重し、不当な差別や不合理・矛盾を許さない教育を実践する方針から導かれている。

学校像には、障害児教育を正しく位置づけ、教師・父兄・地域の連携を密にして、児童の可能性を引き出し、高めるという願いが込められている。
校舎
講堂・本館

特筆される校舎として講堂・本館がある。現鼓阪小学校の校舎は1934年室戸台風により大きな被害を受けた。講堂・本館はこの災害復旧の一環として1936年に完成した。

講堂・本館は破風造りの大屋根を持つ純和風の鉄筋コンクリート造りの建物である。壁は白いモルタルで、玄関には大型自動車が横付けできる規模の車寄せがある。当時の奈良市は公会堂を所有していなかったため、この建物を公会堂として兼用することが考えられていた。完成当時、講堂には映写機が装備され、床面積を減らさないよう映写室が天井釣になっていたという。また、純和風の外装だけでなく、例えば、玄関の下足室の出入口には上部が半円にくりぬかれた特徴的な意匠が、講堂の床にはモザイク張りが施されているなど、建物各所に特徴的な意匠が見られる。

当時の学校建築は洋風のコンクリート造りが一般であったが、鼓阪小学校の立地上、洋風の建物では付近の景観と不似合であるため、当時の奈良市長 石原善三郎が寺院建築様式の建物を構想したという経緯がある。総工事費は当時の金額で87,227円にのぼり、予定金額よりも4,000円超過したため、市会で問題となった。市長は一案を思いつき、正倉院の隣であることを考慮して和風の防火建物で建設したと宮内省に申し出て、超過分4,000円を宮内省から下賜金として獲得し、事なきを得たという。
校区

2006年現在の鼓阪小学校の校区は以下のとおりである[2]。列挙の地名はすべて奈良市内に所在する。

今小路町、今在家町、押上町、春日野町(一部)、川上町、川久保町、北半田東町、北御門町、興善院町、芝辻町(一部)、水門町、雑司町、手貝町、中ノ川町(一部)、中御門町、登大路町(一部)、般若寺町(一部)、東包永町、東笹鉾町、東新在家町、東之阪町、南半田東町、油留木町

校区の変遷に関しては#校区の変遷節を参照のこと。
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この節の加筆が望まれています。

創立まで

1871年文部省が創設され、学校制度全般に渡る法律の起草が開始された。文部省は、国民教育を公私により差別しないとの立場から、1872年3月に私塾や寺子屋も国の認可が必要であるとの布告を各府県に通達した。

この布告から1ヶ月の4月、奈良町では私塾の教師と有識者が私塾・寺子屋の廃止・統合と私学校の設立について話し合った。結果、奈良町の北部と南部にそれぞれ一つずつ、二つの私学校を設けることになった。奈良町の北部、北袋町には文武館[3]の儒学教師であった佐々木育輔宅(元奉行所学問所)を学舎とする「明教館」が開設された。児童の増加に合わせて、明教館は北魚屋東町の元与力の斉藤宅、さらに、笹鉾町の浄国院に移転する。

1872年太政官布告により学制が発布され、さらに学制の細則である小学校校則が制定された。このとき規定された小学校は義務教育として6歳から13歳の児童を教育する機関と位置づけられ、さらに初等教育を普及させるため日本全国で学区組織を設定することを定めた。学区組織において奈良町は第1大区となり、さらに第1大区を5小区に分けることとなった。現在の鼓阪小学校周辺は奈良県第1大区第1小区に割り当てられた。
又新舎の創立

1874年1月15日、就学児童の増加により前述の私学校明教館は北御門村の五劫院に移転し「又新舎(ゆうしんしゃ)」と名前を改めて開校した。正式には「第一番小学」と称し、学制発布後に奈良町で最初に開校した小学校となった[4]。また、東之坂の光蓮寺には「精勤舎」と呼ばれる私学校があり、奈良市立椿井小学校の前身にあたる私学校の分校となっていたが、精勤舎は又新舎の創立と同時に又新舎の分校となった。

創立時の在校生は本校192人、分校18人であった。授業料は当初月額 6 銭 2 厘 5 毛であったが、義務教育を行う観点から1875年には無料となっている。

1875年7月、前年に半田横町で開校した小学校が廃校になり、又新舎に統合された。


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