奈良原浩
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奈良原 浩東北楽天ゴールデンイーグルス 育成総合コーチ #95
ヤクルト戸田球場にて(2020年)
基本情報
国籍 日本
出身地埼玉県南埼玉郡白岡町(現:白岡市
生年月日 (1968-05-16) 1968年5月16日(55歳)
身長
体重168 cm
65 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション遊撃手二塁手三塁手
プロ入り1990年 ドラフト2位
初出場1991年4月6日
最終出場2006年10月22日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


帝京高等学校

青山学院大学

西武ライオンズ (1991 - 1997)

日本ハムファイターズ
北海道日本ハムファイターズ
(1998 - 2006)

中日ドラゴンズ (2006)

コーチ歴


中日ドラゴンズ (2007 - 2011)

埼玉西武ライオンズ (2012 - 2016)

中日ドラゴンズ (2017 - 2019)

東北楽天ゴールデンイーグルス (2020 - )

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奈良原 浩(ならはら ひろし、1968年5月16日 - )は、埼玉県南埼玉郡白岡町(現:白岡市)出身の元プロ野球選手内野手、右投右打)。現在は東北楽天ゴールデンイーグルスの育成総合コーチを務めている。
経歴
アマチュア時代

埼玉県白岡町でクリーニング店を営む家庭に生まれる[1]。4歳の時に軟式野球ボールグローブを買ってもらい、父と仕事の合間などにキャッチボールをするようになった[1]。白岡市立篠津小学校ではスポーツ少年団で野球をし、篠津中学を経て帝京高校に進学[2][3]。帝京では練習時間の2/3が守備練習に充てられ、監督の前田三夫の優れたノックで守備を鍛えられたという[2]。1学年上には河田雄祐小林昭則がおり、チームは2年春の選抜大会で準優勝している。主将となった3年春も選抜大会に出場し、初戦で高知高校と対戦して自身は1番・遊撃手として2安打1盗塁の成績を残したが、チームは0対3で敗れている[4]

青山学院大学へ進むと、2年の秋に遊撃手として東都リーグのベストナインに満票で選ばれ、チームも優勝した[5]。3年春のリーグ戦ではリーグ5位の打率を残してベストナインに選ばれ[6]、同年は日米大学野球の代表にも選ばれた[7]。3年秋、4年春・秋もベストナインに選ばれ、特に4年春は首位打者も獲得している[8][9][10]。また同年も日米野球の代表に選ばれ、東都大学リーグでは通算77試合出場、251打数77安打、打率.307、1本塁打、24打点。1990年度ドラフト会議にて西武ライオンズから2位指名を受け、契約金と年俸それぞれ6000万円、840万円(いずれも推定)で入団契約を結んだ[11]
プロ野球選手時代
西武ライオンズ

1991年シーズンから一軍守備走塁コーチの伊原春樹には「走塁と守備でプロとして食っていける」という高い評価を受け[12]、4月21日には初めてスタメンで起用されるなどシーズンで70試合に出場した。同年の広島東洋カープとの日本シリーズでは第1戦に代走としてシリーズ初出場を果たした[13]

1992年シーズンは代走や田辺徳雄の守備固めとして試合終盤にたびたび起用された[14]。同年のヤクルトスワローズとの日本シリーズでは第3戦の8回に伊東昭光からシリーズ初安打、初打点を記録している[15]同年のシーズンオフには380万円増の年俸1700万円(推定)で契約を更改[16]

1993年シーズンは遊撃手として49試合にスタメンで出場するなど、110試合に出場。日本シリーズでは第1戦で9番・遊撃手としてシリーズで初めて先発出場し、2安打1得点の成績を残した[17]

1994年シーズンは5月7日の対ロッテ戦で送りバントした際に一塁上で転倒し、鎖骨を骨折。全治2か月のケガを負っている[18]

1995年シーズンは松井稼頭央と併用され、遊撃手として46試合にスタメンで出場し、2年ぶりに出場試合数が100試合を超えた。

1996年シーズンは田辺とともに主に二塁手として起用され、53試合に先発出場し、22盗塁を記録している。

1997年シーズンは高木浩之が二塁手として先発出場することが多く、出場試合数は100試合を割っている。1997年7月10日の近鉄戦の9回表無死一・二塁で二走の奈良原が捕手からのけん制でアウトこれに抗議し、塁審の胸を突き奈良原は退場となり、監督の東尾修は試合終了後塁審に胸ぐらをつかみ右足で回し蹴りし、東尾は3試合出場停止制裁金10万と処分を科された[19]。同年10月30日に西崎幸広との交換トレードで石井丈裕とともに日本ハムファイターズへ移籍[20]。この際、当時日本ハム監督のだった上田利治はトレード要員として奈良原と投手1名を要求し、他の野手なら交渉は破談にすると宣言したため、西武監督の東尾修はやむを得ず承諾したという[21][注 1]
日本ハムファイターズ、中日ドラゴンズ

1998年シーズンは開幕当初は代走や二塁手、遊撃手の守備固めとして起用されていたが、打撃不振に陥った金子誠に代わり、スタメンで起用されると3割を超える打率を記録し、5月19日から2番・二塁手のレギュラーに定着[22]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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