オルジェイ・クトゥク
.mw-parser-output .font-mong{font-family:"Menk Hawang Tig","Menk Qagan Tig","Menk Garqag Tig","Menk Har_a Tig","Menk Scnin Tig","Oyun Gurban Ulus Tig","Oyun Qagan Tig","Oyun Garqag Tig","Oyun Har_a Tig","Oyun Scnin Tig","Oyun Agula Tig","Mongolian Baiti","Noto Sans Mongolian","Mongolian Universal White","Mongol Usug","Mongolian White","MongolianScript","Code2000","Menksoft Qagan"}.mw-parser-output .font-mong-mnc,.mw-parser-output .font-mong:lang(mnc-Mong),.mw-parser-output .font-mong:lang(dta-Mong),.mw-parser-output .font-mong:lang(sjo-Mong){font-family:"Abkai Xanyan","Abkai Xanyan LA","Abkai Xanyan VT","Abkai Xanyan XX","Abkai Xanyan SC","Abkai Buleku","Daicing White","Mongolian Baiti","Noto Sans Mongolian","Mongolian Universal White"}???????????
完者忽都
モンゴル帝国皇后・元朝皇后
全名不明
諡号普顕淑聖皇后
別称奇皇后
出生延祐2年(1315年)頃
高麗国
死去至正29年(1369年)もしくは至正30年(1370年)以降
配偶者トゴン・テムル(恵宗)
子女アユルシリダラ
氏族幸州奇氏
父親奇子敖
母親不明
テンプレートを表示
奇皇后(きこうごう)は、14世紀の元朝最後の皇帝である順帝トゴン・テムルの皇后。モンゴル名はオルジェイ・クトゥク(???????????、Ol?ei Qutuq、完者忽都)。諡号は普顕淑聖皇后。高麗出身で、北元皇帝アユルシリダラを生んだ。本貫は幸州奇氏。 モンゴル帝国の高麗征服以後、高麗王室は忠烈王が世子時代にモンゴル皇帝クビライの下で近衛集団であるケシクに入侍し、さらに高麗国王として退下・即位するとその公主の降嫁を受けることが習わしとなった。以後、高麗王室は元朝の皇帝家であるクビライ家を宗主とする「高麗?馬王家」の称号を許され、元朝を支える姻族のひとつとなった。これに伴いモンゴル皇帝や皇族の公主が歴代の高麗王に降嫁していた高麗王は、元の征東行省の長官かつ元帝の女婿、という独自の国際的地位を確保した[1]。高麗王家とモンゴル皇帝家との姻戚関係を結ぶことで、それまでの武臣政権時代のような、有力家臣集団から高麗王家への政治的干渉を解除することにひとまず成功した。 こうして高麗王国内から、ケシク要員や官吏等として元朝宮廷に出仕する王族や貴族が増加した。同時に元朝中央での動乱が高麗王室に直接影響を及ぼすようになり、忠宣王・忠粛王・忠恵王のように元朝宮廷での争乱の影響で後援する皇族の消長に伴って王位が改廃される事態が続くようになった[2]。このような13世紀後半から14世紀前半にかけての元朝宮廷・高麗政権間の人的・政治的関係の中で出現したのが、奇皇后、「完者忽都皇后奇氏」という高麗人元室皇后である。 もともと高麗人の奇子敖の娘で、高麗貢女として元廷に献上された女性である。宮女として順帝トゴン・テムル(在位1333年?1368年)の食膳の給仕などをしていたが、次第に順帝の寵愛を得たものである。順帝には最初キプチャク族出身のダナシリ皇后がいて、奇氏は嫉妬にかられたダナシリからたびたび嫌がらせを受けたが、元統3年(1335年)にダナシリの兄が謀反罪で捕らえられ、ダナシリも謀反に加担したとして殺された。後至元3年(1337年)、順帝には武宗カイシャンの皇后であった真哥皇后の姪で毓徳王ボロト・テムル(孛羅帖木児)の娘であったコンギラト部出身のバヤン・クトゥク(伯顔忽都)皇后が冊立され、奇氏は次皇后となった。 バヤン・クトゥク皇后は皇子を1人生んだが、2歳で夭折している。バヤン・クトゥク皇后はよくできた人物で、次皇后の奇氏が順帝の寵愛を得ても嫉妬ひとつせず、慎ましく暮らしていたという。奇氏も暇をみては女孝経 一方、高麗では奇氏はもともと貧寒の家柄であったが、その娘が高麗王よりも高位である元朝次皇后・皇太子生母になったと大騒ぎになり、奇氏一門が権勢を振るうようになり、民を搾取した。至正11年(1351年)、反元の志を抱いて高麗王に即位した恭愍王はこれを快く思わず、至正16年(1356年)に兄の奇轍
背景
生涯
高麗貢女
次皇后
高麗の動き
奇后は以前から、政治に身を入れず酒色に耽る順帝に愛想を尽かし、皇位を息子の皇太子アユルシリダラに譲位させたがっていた。至正25年(1365年)には偽勅を発してココ・テムルの軍を動員し、順帝に迫ろうとしたが、ココ・テムルに気付かれて巧くいかなかった。それでも后妃の地位を廃されなかったのだから、皇太子生母の立場は強いものであった。
まもなく正皇后バヤン・クトゥクが死去したことにより、次皇后の地位にあった奇氏は正皇后に昇格した。奇氏がバヤン・クトゥク皇后の死後、その宮室に行ってみると、慎ましく暮らしていた前皇后の衣服は破れを繕ったようなものばかりで、奇氏は「正皇后がこんな服ばかり着ていたのか」と大笑いしたという[3]。次皇后とはいえ、皇太子生母として相当な権勢を振るっていたとみなければならない。 至正28年(1368年)、朱元璋の明軍が大都郊外の通州に迫ると、順帝は奇皇后や皇太子を引き連れて大都を去り、元朝の中国支配はあっけなく終わりを告げる。順帝は内モンゴルの応昌に逃れて再起を期していたが、至正30年(1370年)にこの地で没し、皇太子のアユルシリダラが後を継いだ。
北元