大龍寺とは異なります。
太龍寺
本堂
所在地徳島県阿南市加茂町龍山2
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度52分57.1秒 東経134度31分18.8秒 / 北緯33.882528度 東経134.521889度 / 33.882528; 134.521889 (太龍寺)
太龍寺(たいりゅうじ)は、徳島県阿南市加茂町にある高野山真言宗の寺院。舎心山(しゃしんざん)、常住院(じょうじゅういん)と号す。本尊は虚空蔵菩薩。四国八十八箇所の第二十一番札所、阿波秩父観音霊場の第10番札所。
本尊真言:のうぼう あきゃしゃ きゃらばや おん あり きゃまり ぼり そわか
ご詠歌:太龍の常にすむぞやげに岩屋 舎心聞持(もんじ)は守護のためなり
納経印:当寺本尊、舎心嶽求聞持大師
概況大師堂への参道
太竜寺山弥山(標高600.1 m)[注釈 2]の山頂近くに位置し、本堂は標高505 m付近で八十八箇所で6番目の高さにあり、大師堂は、御廟の橋、拝殿、御廟が並び高野山奥の院と同じ配列になっていて、その大伽藍は西の高野と称され、阿南室戸歴史文化道の指定、とくしま88景の選定を受けている。阿波では「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」と称され、へんろころがしと呼ばれる難所の一つである。 空海(弘法大師)の24歳での著作である三教指帰(さんごうしいき)の序文に「阿國大瀧嶽に…勤念す」と記されており、大瀧嶽は現在の大竜寺山であると考えられている。19歳で都の大学での学問に見切りをつけて修行に入った空海が、現在の境内の600 mほど西にある舎心嶽の岩上で百日間の虚空蔵求聞持法を修したとされる。山号はその舎心嶽から、寺名は修行中の空海を守護した大龍(龍神)にちなんでいる。 延暦12年(793年)に桓武天皇の勅願によって阿波の国司・藤原文山が伽藍を建立、堂塔が建立され、空海が虚空蔵菩薩像などを刻み安置したと伝えられている。 天長2年(825年)淳和天皇が寺領を寄進、嘉保2年(1095年)には白河上皇の命により東寺の長範が再興した。皇室や武家からの信仰が篤く寺勢は栄えたが、天正年間(1573年 - 1592年)に長宗我部元親の兵火によって焼失し衰退、その後も復興と荒廃を繰り返すが徳島藩主蜂須賀家の保護によって再建される。 戦後は山中の山寺ゆえに困窮の時代を迎え、龍の窟[注釈 3]を失い、さらに昭和34年(1959年)には三重塔[注釈 4]を失ったが、1992年に太龍寺ロープウェイ[注釈 5]が運行するようになり車利用者でも約30分坂道を歩かないと行きつけない難所であったが容易に参拝できるようになり、遍路ブームの到来もあって隆盛時を迎えた。 2011年7月の台風6号により、樹齢400年に及ぶスギの先端およそ15 mが折れて、本堂の屋根を突き破ったが数年後に復旧した[2]。また、大師堂もその後の台風で損傷していたが2018年には復旧している。
歴史
境内
山門(仁王門):金剛力士像は鎌倉時代の作品で、徳島県では最大にして最古のものである。
鐘楼門:本堂へ通じる石段の途中にある。
本堂:本尊は天井に達する大きな仏像で半丈六仏。本尊の開帳 毎年1月12日の11時より法要があり、そのあと正午頃から15時頃まで本堂の中に入って拝観できる。厨子の扉は朝一番から開いているので外からの拝観は可能。