太陽の党
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太陽党」あるいは「太陽の塔」とは異なります。

日本政党太陽の党
成立年月日2012年11月13日[1][2]
(第2次) 2014年9月25日
前身政党たちあがれ日本
解散年月日2012年11月17日
(第2次) 2015年4月30日[3]
解散理由日本維新の会への合流
(第2次) 次世代の党への合流
後継政党日本維新の会
(第2次) 次世代の党
本部所在地〒100-0014東京都港区赤坂一丁目11番28号 常和赤坂一丁目ビル10階[4]
(第2次) 〒102-0094
東京都千代田区紀尾井町3-33[5]
政治的思想・立場極右/急進右翼[6]
保守主義[7]
国民保守主義[8]
伝統保守主義[8]
自主憲法制定[2][8]
環境主義[8]
シンボル人の顔をした太陽
2012年11月17日から2014年9月25日までの間は法規上存続していたが事実上休眠していた
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太陽の党(たいようのとう、英語: Sunrise Party)は、かつて存在した日本政党。略称は太陽。1字表記の際は、太と表記される[要出典]。主に3期に渡って活動したが、いずれも短期間かつ小規模な活動に留まり、太陽の党としての大規模な活動は見られなかった。
概説

2012年11月13日、右派系小政党のたちあがれ日本が、石原慎太郎の参加とともに、「太陽の党」に党名を変更して誕生した[9][10]直後の11月16日に衆議院が解散総選挙が決まり、同月17日に日本維新の会に合流、結党から5日間で姿を消した[11]。ただし、政治資金規正法に基づく政党としてはその後も存続した[12]

2014年9月、「太陽の党」The Sunrise Partyは、当時無所属であった衆議院議員の西村眞悟、元航空幕僚長の田母神俊雄らによって活動を再開したが、同年11月26日、急な衆議院解散による第47回衆議院議員総選挙を前に、次世代の党への合流を太陽の党公式サイトで公表し、再び休眠状態となった。

2014年12月、次世代の党で当選した園田が太陽の党に移籍し党首に就任。所属国会議員が一人となり政党交付金の対象となる政党要件を満たした。園田はすぐに無所属となり自民党への復党の道を探るとしていた[13]。しかし、2015年4月30日をもって党を解散[3]、翌5月1日に次世代の党と合併した[14]。同年5月、園田は4ヶ月ほどで元いた次世代の党へ復党した(さらに同年10月、園田は平沼赳夫とともに次世代の党を離党し、自民党に復党した。)。
党史
結党前

2010年に結成されたたちあがれ日本平沼赳夫を党首とする保守系の小政党で、保守系の言論人である石原慎太郎東京都知事も「応援団長」として党に関わっていた。

2012年1月25日、石原と平沼、国民新党亀井静香で3月中にも新党を結成するとの報道が流れた。当初、平沼は「亀井さんの一人芝居」と否定してきたが、以降、石原新党結成を目指した発言をしていくようになる。平沼は同日の記者会見で保守結集を目指し、「自民、民主の一部に働きかけ、70?80人を糾合することを目標にしたい」と語り自民党の反発を受けた。自民党の谷垣禎一総裁は27日夜、「自民党からも引っ張ってこようというような失礼な話にコメントする必要もない」と不快感を示した。31日、石原伸晃幹事長も「人の財布に手突っ込むな」と反発した。

3月7日、平沼は記者会見で「都知事は、予算などで都議会が開かれているので、3月までに新党をつくるのは現実、考えられない問題だ」として当初目指していた3月結成を断念。「謀は密なるものを旨とすることだ。作業は深く静かに潜行してやっていかなければならない」とも述べて引き続き新党結成を目指す姿勢を鮮明にする。石原は4月12日、訪米前に成田空港で記者団の取材に応じ、新党構想について「一回ないことにする。白紙に戻す。やる必要があるならばおれ一人でも台本づくりをやる」と新党構想を練り直しを表明する。その後、訪米先で都による尖閣諸島購入を表明。たちあがれ日本もこれを支援するため、尖閣諸島購入の為の寄付金募集の口座を作り、以降石原及び平沼は尖閣購入関連の活動に注力する。国民新党を離党した亀井静香は新党について「5月末にはできる」と言い、また6月のたちあがれ日本の政治資金パーティで新党のお披露目があるのではないかと期待されたがなかった。

7月4日、たちあがれ日本は石原新党を視野にいれた「平成24年政策宣言」を発表した。自主憲法制定を最初に掲げ、尖閣諸島への自衛隊配備や財政への複式簿記の導入など、石原氏が進める政策を後押しする内容も盛り込む。政策宣言のキャッチフレーズは「日本力倍増!」。またこれに伴う会見で平沼は亀井との同一行動を否定し、石原も同様の対応を取るだろうと推測した。9月、政府により尖閣諸島が購入され、尖閣購入問題に一定の決着がつく。20日、平沼は横浜市中区内の講演で「38年間付き合ってきた仲だ。必ずできる」と明言した。10月12日、石原は記者会見で「中央官僚の国家支配をぶち壊さなきゃいけない。私は身を捨てて何でもやるつもりだ」と意欲を見せ、併せて「後は私の年齢(80歳)と健康だ」と近く健康診断の結果で最終判断する考えを示した。さらに翌日の13日には、新党「日本維新の会」を結成した橋下徹と石原と平沼が極秘会談[15]した。

10月25日、石原は午後3時から緊急記者会見を開き、東京都知事の辞任と新党結成の意向を示し、自身は東京ブロックでの比例出馬を表明した。記者会見の後、たちあがれ日本の本部で全議員と対応を協議。30日の拡大支部長会議でたちあがれ日本の解党と石原新党への合流を決定した[16][17][18]。しかし10月30日の全国拡大支部長会議では「たちあがれ日本を解党して石原新党へ合流する」方針を撤回し「たちあがれ日本を改名して石原新党とする」方針に修正した。これは、たちあがれ日本を解党した場合、たちあがれ日本に対する政党交付金(12月分のみで約4300万円)を受け取れなくなるという事情があった[19]
第1期2010年代の第三極の離合集散

11月13日、「たちあがれ日本」を党名変更する形式を取って、新党「太陽の党」の結成を総務省に提出。石原と平沼が共同代表を務め、「たちあがれ日本」所属の現職国会議員5名に石原が参加する形を採って結党した[20]。その他に、民主党を離党した中津川博郷らも合流する意思を示した[21]。結成にあたって参加を持ち掛けられた亀井は、新党が亀井と政策理念が異なる橋下徹との連携を図ろうとしたため、参加を拒否する[22]

結党後、更なる党勢拡大を目指して、名古屋圏の地方政党減税日本との合流が交渉された[23]。しかし16日、太陽の党側が日本維新の会と合流することとなったため、減税日本との協議は棚上げされた[24][25]


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